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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

椿

去年の冬、用事があって嵐山の奥のほうを歩いていた。あたりには人家も見あたらない。滅多に人が通らないような、どこへ続くのか分からない道をさまよい歩いた。はなばなしい「嵐山」とはまた違った風情があって、たいへん気分良く歩いたことを覚えている。

さて、少しだけ太い道へ出て、そこはアスファルトで舗装されていた。駅へ戻るため、もくもくと歩みを進めていたら、赤いものが点々と落ちているのが目に映った。はて何かしらと近づいてみると、それはまさしく椿であった。椿の花が、命を終えて、コンクリの道へと落ちていたのだ。

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桜が「散る」と言うように、椿の花の枯れることは、「落ちる」と表現するらしい。首を落とされるイメージから、武士には不人気だったと聞くが、それも本当かもしれないと思う。本当に「落ちる」というありさまなのだ。樹上で咲いたときと同じように、そのままの形で、土へ落ちる。そうして徐々にくさっていく。

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はじめ私が見つけたときは、あまりにもそのままの形なので、土の上で咲く種類の花かと思い違いをしたほどだった。しかしよくよく見てみると、めしべはきちんと樹上へのこっている。一本だけ、まるで針を突き刺したような姿で、めしべだけが樹へのこっている。

この体験をしてからというもの、私は椿のとりこになった。冬がくるたびに、土の上を探してしまう。落ちてからまだ間もない花、半分ほどくさった花。誰かに踏みつけられた花。いろいろあるけれど、どれも独特のグロテスクな魅力をもっていて、ぞくぞくしてしまう。もう役目を終えたものなのに、こんなにも美しいというのは、なんだか退廃的で、背徳的で。その徐々にくさっていく様を、時間のゆるす限り見つめていたいという気もする。

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人も生きていくにあたっては、いろいろな名誉を得られることもあるだろう。お金がたまることもあるだろう。たまったお金で着飾ることもあるだろう。それは生の楽しみだけれど、同時に、死してはなんの役にも立たない楽しみでもある。いくら身体を飾っても、死ねば徐々にくさっていくし、最後は土に還っていく。

けれども椿のめしべのように、本当に大事なものだけは、なんとか残したいと思う。それが何にあたるのかは、人によっても違うだろう。私にとっては書くということだ。私の書いたものがのこって、そこから新たな何かが生まれる。生殖には興味のない私だが、そういった意味では、新たなものが生まれる培地になりたいと思う。すべての虚飾を振り落としてなお、針のようにとがった芯を残せるのであれば、人生もまた無意味ではないと思えるのだった。

そして今年も椿は落ち、桜が咲く。私は博士課程にあがった。