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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

結婚の利便性について

子供をつくる意思がない。生まれてこのかた、そんな願望が発生したことがないのである。

中学生のころには、「大人になれば自然発生的に備わるものだろう」と考えていた。大人になれば、きっと芽生えるものだろうと。しかし生殖可能になり、いわゆる「適齢期」を迎えた今でも、いっこうに子供が欲しいという気が湧いてこない。

こんなことを言うと、人はまるで私が重大な欠陥を抱えた人間であるかのような顔をする。もしくは年齢・環境的に、「成熟しきっていないから」だと言う。もっと歳を重ねれば、自然にわかることでしょうと。私がそれに反駁すると、今度は脅しにかかってくる。老後がさみしいよ。みんな苦しくても作るんだよ。それが社会なんだよと。私は適当に微笑んで、「そうかもしれませんね」と言う。それで相手は満足する。会話が終わる。

こんな会話を数十回やって、ときには私の幼少期に原因をもとめ、もしくは「日本社会の制度的欠陥が若者世代の希望を奪った一例」と言われ、いろいろな形で、私の「欠陥」が説明されようとしてきた。理由がわからないものは不安である。だからみんな、自分の中で説明を作り出そうとするのだ。しかし私に「理由」はない。ただ「結果」があるのみだ。私は子供が好きでなくて、ほしくない。ただそれだけのことなのだ。

さて、生殖による再生産がライフプランに入らないから、自然と「婚姻」もどうでもよくなる。「婚姻」はきわめて制度的・形式的なものであって、当事者同士が納得していれば、あとはどうでもいいのである。むしろ書類上の手間が増えるだけ、損をしているとすら言える。相手と気が合わなくなったとき、わざわざ「離婚」のステップを踏むのもめんどうな話だ。だから私は結婚もしたくない。恋愛状態に身を置くのはいいとして、婚姻関係には関わりたくない。そういう形で暮らしてきた。

ところが、である。最近、結婚をした人のブログを読む機会があって、そこの記述に気づかされることがあった。ご本人のブログは(知人の知人という関係の人なので)載せないでおくが、「結婚をすることによって、恋愛市場から引退するということが、思った以上に精神衛生によい」というのである。

なるほど確かに、恋愛市場というものは、非常にめんどうなものである。
適齢期であり、独身者の私は、ひんぱんに誘いを受ける機会がある。「研究の話を聞きたいので」と言われて行ったら、明らかに別の目的が裏にひそんでいたことも多い。しかしこういった状況は、恋愛においてはむしろオーソドックスな「攻め方」だ。

だから私も気を遣う。誘いを受ける段階では、まだ相手が「好意」を抱いているかはあいまいである。こちらから先んじて「あなたと恋愛する意思はありません」などと言って、まったくの勘違いであった場合、私が恥をかくだけでなく、せっかく私の研究に興味を抱いた人が去ってしまうことになる。だから強く断ることもできず、「忙しいので」などといって、あいまいに断ってフェードアウトする必要がある。

選び、選ばれ、だまし、だまされ。そんな高度な思考の演算が、恋愛市場では要求される。
そんな駆け引きは、若い間はきっと楽しいものであろう。相手を手のひらの上で転がし、もしくは自分が転がされて。その駆け引きに勝ち、相手が自分のものになった心地よさ。虚構と分かっていながらも、かりそめの恋愛状態を楽しむ蜜月の期間。恋愛は麻薬にすら似ている。だからみんなが手を染めるのだ。

けれども年を取ったあるとき、それら全部に「疲れた」と感じるときが来る。恋愛市場で選ばれるため、身なりや行動に気をつけている自分。ほんとうはハイヒールなんか履かずに、スニーカーでざくざく歩きたいのに、わざわざ外反母趾になってまで、ピンク色の靴を履く。すでに行ったことのある、対しておもしろくもないテーマパークに、まるで初回かのようにはしゃいでみせる。

そういったペルソナのすべてが鬱陶しくなって、「放っておいてくれ!」とわめきたくなるときが来る。それでも世間は放っておいてくれない。なぜなら私は「独身者」だから。市場に商品として並んでいるから。私は値札をつけられて、勝手に棚に並べられている。おまけに年齢を重ねるたび、「うっすらホコリをかぶっている」だの、「そろそろ値下げが始まる」だのと言われていく。そんな棚から降りるための、唯一「正しい」方法、それこそが「結婚すること」なのである。

自由経済」となった恋愛市場は、参入にも脱退にもエネルギーがいる。そこから効率的に降りるには、値札の代わりに、「売約済み」の札を貼られるほかないのだろう。今は、そんなふうに納得している。