読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

東京へ行った

東京へ行った。苦手な街だ。用事があって、それで行った。そうでなければ行きたくなかった。東京は私が「持たざる者」だと、冷たく突きつける街だから。

生まれてこのかた、関西から出たことがない。初めて東京へ行ったのは高校生のときで、とにかく「怖いところ」だと思っていたから、目的地へはタクシーで行った。帰りも当然、タクシーで帰って、一切わき目もふらなかった。ちょっと観光をする余裕ができたのはつい最近のこと。学会や何やで用事があって、頻繁に足を運ぶようになってからだ。

東京にはなんでもある。おしゃれな街並み。美味しい食事。センスの良い服屋。美術館だって博物館だって、電車に乗ればそこそこ30分で行けてしまう。駅ナカにはイベントの情報が所狭しと並んでいて、(私の実家のような)へんぴな町の駅とは違い、スペースが空くということがない。何でも手に入る街、それが東京。日本の中心たる場所である。

ところがここには重大な前提が隠されている。「金さえあれば」という前提だ。金さえ出せば、おしゃれな街並みをうろつける。金さえ出せば、美味しい食事にありつける。金さえあれば、センスの良い服で風を切って歩くことができる。こういう前提があることを、否定する人はいないだろう。ほっと一息つくことすら、ここでは金銭なしに行えない。やはり、「金を出して」休むことになるのだろう。そして私には金がない。

駅についてエスカレータで降りていくと、横にあるのは広告である。ご丁寧に、私の下降に合わせて読み進められるように貼り紙が配置されている。電車から外を見ると、そこに見えるのは広告である。色が、文字が、情報が、四方八方から押し寄せて、「消費せよ!」とがなりたてる。そうはいっても、私には可処分所得がないのだから仕方がない。この街が見せるキラキラを、私は享受することができない。

もちろんこれは、私が行った場所が悪いというのもあるだろう。きっと中心地から離れれば、ちょっとのんびりしたようなところもあるはずだ。しかしそういった場所は、そもそもヨソの人間には開かれていないのであって、だからこそのんびりしているのである。ヨソものである私が行ったとことで、腰を下ろすことすらままならないだろう。そんな風に思う。

と、自分が「持たざる者」であることを突きつけられる以外に、私がともかくいやなのは、自分の頭をいらない情報が埋め尽くすように感じることである。

かつて人類学の授業の中で、David Harveyの論文を読んだ。テーマは、フランスにおいて「大通り」が果たした役目について。

市民革命が盛り上がり、揺れ動いたフランスは、かつての街並みをキレイにならし、大通りを張り巡らせた。通りの沿いにはやはりキレイな百貨店が立ち並ぶ。人々はそこに吸い寄せられ、王や女王のように扱われ、財布を空にして百貨店を出る。買ったものを身につけた女性は、カフェのテラス席で談笑にふける。そしてそんな光景こそが、百貨店の広告にもなり、パリの「顔」の一部になる……。

この、パリにおける「オスマン化(Haussmannisation)」は、ニューヨークをはじめとして、近代都市の構造の下敷きとなっている。東京だってそうだろう。Harveyはこの現象をとりあげ、「人々の関心を、政治から消費行動へ移らせるための方策」であるとした。きっと正解だろうと思う。私だって、十分それに踊らされている。誰のことも、批判することはできない。

けれどもこういった情報の氾濫、消費行動への誘導の中で、自分がほんとうに大切にしたいことだとか、短い人生の中で、いったい何を人生における中心に据えるのかといったことについて考える時間すら奪われてしまうのはほんとうに悲しい。目先の情報を追いかけるために、5分、10分と時間をとられて、気づけば一日がごみで埋まっている。そんな一日を何度か繰り返せば、一週間、一ヶ月、一年などすぐに経ってしまうだろう。とかくここでは、頭を整理する時間がない。追い出すことに躍起になって、気づけば疲れ果てている。そんなふうに感じてしまうのだ。

そんなわけで溜め込んだ疲れが、今になっても抜けきらない。卒業式、卒業パーティ、M1の修論相談会とイベントが相次いだせいもあろう。それでも詰まった仕事があるので休むことが許されない。3月中は、ずっとこんな調子だろうと思う。