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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

『ラ・ラ・ランド』を見た

映画

あなたには夢があるだろうか。

私にはある。あった。小説家になりたかった。けれどなれなかった。何故か?知らん。

ともかく話を小説家に絞って進めよう。ちょっとこの記事を読むのをやめて、知っている小説家の名を挙げてみてほしい。いったい何人出てきましたか?3人?まぁそんなもんだろう。10人?けっこう知ってるね。50人?あなたは文学理論の研究者なのかな。

そう、「そんなもん」なのだ。小説家を目指す人間はごまんといる。かりに志望者がたった1000人しかおらず、あなたが50人も小説家の名を挙げられたとしても、確率としては1/20だ。その裏には19/20の「なれなかった人」がいる。死屍累々の光景の中で、村上春樹が、東野圭吾が、宮部みゆきが輝いている。

私たちはあきらめていく。だんだんと夢をグレードダウンする。「OK芥川賞はあきらめるよ。でも普通の連載作家ならいいでしょう?それもダメ?じゃあWeb作家あたりを目指そうか?うん……じゃあ……ブログにしようか?」

流れはこんな感じだろう。そして最後は、ブログにすら反応が来ないことに打ちのめされて、文章を書かなくなっていく。たまに、Facebookの投稿を見た友達から、「小説家みたいやなぁ!」などと言われて、気分よくその日の午後を過ごす。
その程度の賞賛でなんとか自分を落ち着けて、そうやって老いて、若者に「昔は私だって……」と自慢するような人間になる。小さな賞でも取っていたものなら、厄介さは数万倍だろう。
そんな大人に、自分はなりかけている。

さて先日は、『ラ・ラ・ランド』を見た。ミュージカル映画は好きである。だからとっても期待して見た。ところがこれは「not for me」だった。オシャレな衣装に良さげな音楽、どれも素敵だったはずだ。それなのに何故だか、まったくピンとこなかった。

監督は真剣に映画を作る。だから私も真剣に向き合う。このモヤモヤを、文章にして決着をつける。そう思って、ずっとずっと考えてみた。

けれどもなんだか答えは出ない。「無計画な主人公たちに共感できない」というのもあるし、「大口を叩いて理想を語るヒーローに魅力を感じない」というのもある。「恋に落ちるきっかけが不明」なのも不満だし、「唐突に夢が叶う感じもイヤだ」という気持ちもある……

そこで気づいた。ああ、この話、すごくリアルなんだ。

たいした計画もないのに、東京へ出るような人。
理想ばかり語るけれど、活発に動くわけでもない人。
別に相手がすごく好きなわけでもないのに、なんとなく一緒に過ごして、なんとなく別れるラブストーリー。
必然性はないのに、ごろっとチャンスが舞い込んで来て、なぜか成功する人への妬み。

どれもどれも、実世界において感じるモヤモヤと一緒じゃないか。「夢を追っている」と言いながら、動きもせず、計画も立てず。それでも成功するやつはして。自分は成功できないままで。

そんな実世界でのモヤモヤを、映画という「娯楽の時間」に見せられたのが不満なのだ。考えてみれば、私の好きな映画はすべて、リアリティとは程遠い内容ばかりだった。「努力した結果、それが誰かの目に留まり、瞬く間に成功をおさめる!」なんて、一見筋が通っているようで、実は完全なフィクションだ。現実世界では「努力」なんてクソの役にも立たない。「努力」は成功した後に、「私は誠実な人間でしたよ」とアピールするためのアクセサリーでしかないのだから。

だからこそ、「なんでか知らんが」成功したヒロインに感情移入をすることができず、賢く立ち回ったヒーローに魅力を感じることもなく、「なんかイマイチだったなあ……」なんて思うのだ。それは私にとっての現実だから。映画に求める「娯楽」の機能とは、かけ離れた悲しみがそこにあったから。

「物語を鑑賞する」とは、その物語で提示される要素を、自分の体験と結びつけて受け入れることだ。そこに「客観的な内容」などというものは存在しない。すべては主観的な解釈の世界なのである。

だから物語を鑑賞すると、自分のすがたがよく見えてくる。提示された要素に、自分はどういう感想を抱いたか。それを緻密に観察すれば、自分自身の、見えない心の奥底がのぞくような気がする。

『ラ・ラ・ランド』を楽しむことができなかった私は、きっとヒロインが働くコーヒーショップにいて、画面の片隅にちらっと映る程度のモブなのだ。モブキャラだから、ヒロインに感情移入なんてできっこない。そんな人生を、焦りとともに生きている。