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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

なぜ金にもならないブログを書くのか

雑記

ブログを書きながら時折、何故自分はこんなことをしているのだろうと考えることがある。

駆け出しといえど、金をもらって書く身である。
映画や書籍のレビューなど、依頼されて書いたのであれば、5000円ほどは請求するような文字数だ。もちろん趣味の書き物だから、売り物と違ってラフな書き口ではあるが、それだって努力がゼロかと言われればそうでもない。それなりに頭はひねるし、確実に時間と打鍵コストはかけている。

金がもらえるわけでもなく、日々の記録になるわけでもなく。貧乏人の私はなぜ、こんなことを続けているのか。

そんなことを考えていると、村上春樹の文章に行き当たった。内容は読者とのQ&Aで、読者は就活で「自分について書け」と言われ、途方に暮れているのだという。
村上春樹はその読者の悩みを拾い上げて、「カキフライについて書く」ことをすすめる。

(私が理解したところの)村上のロジックはこうである。

人は自分自身について書くことはできない。
しかし、目の前の事物について語ろうとすると、自然と自分自身の態度や内面を記述することにもなる。
だからカキフライについて書きなさい。それについて思ったことを書けば、あなた自身について書くことになるだろうから。

私たちが文章を書くとき、そこには無意識の間にきびしい選択が行われている。
試しに自分でもやってみればよい。街中でぱっと立ち止まって、その光景を記述しようと試みるのだ。そこで何を選び取るかによって、恐ろしいほど「自分」の姿は露わになる。

その人通りの多いことを書くか、それとも車のクラクションについて書くか。
もしくは建物の造形について書いたっていいだろう。
むろん、そういった人工物はすべて背景化してしまって、その空の美しいのを書いたっていい。

ほら、こんなにも選択肢はあふれている。人間は無意識のうちに、「何を見て」「何を見ないか」をきめている。

目の前に「見た」ものを文章化する行いは、その選択の結果を、分かりやすく目の前に提示する行為であるとも言えるだろう。
おまけにそこへ「感想」を添えてしまえば、もう「自分」がそこに見えてくる。「私はこれを見ていて、こう思いました」ということが、文章化の作用によって露わになるのである。

私が文章を書くというのも、結局のところ、「自分」が分からないからなのだろう。研究内容にしたってそう。カメラ趣味にしたってそう。すべて最後は「自分自身」につながっている。

ものを置いて砂をかければ、ものの形はシルエットとなって、紙上に浮かび上がる。
私にとって、「文章」とはその砂なのであり、今は結局、その砂を増やしてシルエットをより強固にしていく途中なのだ。
これはひどく独善的だから、売り物の文章では行えない。だからわざわざブログをやるのだ。腱鞘炎の手の甲にシップを貼りながら、それでもやらざるを得ないのである。

神を失った時代には、生きる意味が損なわれる。科学は「種」である人間については存在理由を思案してくれるが、「個」である私には興味がない。私が一匹、突然に野垂れ死んだところで、そこに救いはないだろう。

だから我々は、なんとか自分たちで「理由」をでっち上げねばならない。たとえばお金を持っているとか、たとえば異性をはべらしているとか。だいたいはそんなことで。そうでなければ死んでしまう。だって存在理由はないのだから。

そしてそういった通り一遍の「理由」に適合できなかった私は、「表現」という存在理由をでっち上げた。「私の書いたものが、いつか誰かの記憶に残って欲しいから」などとでっち上げた。そしてその営みの中で、なんとか自分を突き止めようともがいている。きっとそういうことなのだ。

ところで今日は実家に帰っている。入学の手続きや何やをするためである。もちろん施設の祖母も見舞う。知らぬ間に古びた光景が、私にも人生があったことを知らせる。