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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

『桐島、部活やめるってよ』を見た

映画

とんでもない映画を見た。この日曜に見た『ラ・ラ・ランド』は残念ながら好みには合わなかったが、この映画だけはとんでもない。まるで自分が見た光景が、そっくりそのまま映像化されたような衝撃。桐島、部活やめるってよという映画である。

この作品は、日本アカデミー賞で最優秀作品賞を受賞し、今も口々に語られている。ところが私は未鑑賞だった。だって邦画が苦手なんだもん。

火薬がボカーン!女優がバイーン!殴って!蹴って!爆破!!!ってな感じのハリウッド映画は、脳のリソースを食わずに済む。だからこそ娯楽として楽しめるわけだが、邦画はそういう作品が少ない(ように思う)。

だからなんとなく、「また湿っぽい映画なんでしょ?根暗は私だけで充分だっての」という調子で見送っていた。まあ実際、湿っぽい映画である。ところがその湿っぽさが、絶妙にこう、すごいのだ。いやもう「見て」。それしかない。けれどもそれでは説明にならないから、頑張って説明をしてみよう。

あらすじ

この物語は、タイトルにもいる「桐島」が、部活をやめる噂から始まる。

登場人物のセリフを聞くと、どうやらこの桐島という男、バレー部のエースらしい。勉強もできるしカッコいいし、おまけに校内一の美女と付き合っている。いるよね、こういうパーフェクトヒューマン。当然のごとく、スクールカーストの上位にも君臨している。

……と、そんな桐島が突然、学校にも来ずメールも返さず、「部活をやめる」決断をしたのだから、学校内は大騒ぎ。これが話の中核だ。

さて、「中核」とは書いたものの、この映画では、中心人物たる「桐島」は一切姿を現さない。
鑑賞者は、周囲の人物が発するセリフを手掛かりに、上記のような情報を読み取るほかない。桐島がなぜ「部活をやめた」のかについても、登場人物たちの推測以上には、答えは明かされないままだ。

そう、この映画で描かれているのは、そういった「謎解き」部分ではない。
描写の対象となっているのは、「桐島」が部活をやめたことにより、影響を受ける「まわりの生徒たち」の姿なのである。

微妙な力関係が成り立つ、クラス内の生徒たち

女子

スクールカースト」という言葉はすっかり浸透したように思うが、学校という閉鎖空間では、常に微妙な力関係があり、ギリギリの均衡を保っている。
この映画では、その微妙な力関係が、見ていてつらいほどに描き出される。

たとえば、校内一の美女「梨紗」。「桐島」と付き合っていながら、部活をやめる決断については何も聞かされていない。巻いた髪やバッチリメイクは、いかにも「カースト上位」の雰囲気。ちょっと近寄りがたいような、常に気だるい雰囲気のある生徒だ。

そして、それにくっついて行動する「沙奈」。この子ももちろんカワイイのだが、どこか無理をした感じがある。「梨紗」や上位男子との交際をアイデンティティとし、ついていくのに必死といった様子だ。
そんなわけだから、下位の存在をバカにする。オタク系男子も、努力する生徒も、「沙奈」の前では「ダサい」。見ていて腹立つことこの上ないが、「梨紗」に嫌われまいと奔走する姿は、それはそれで痛ましい。

そこに加わるのが、バドミントン部の「実果」と「かすみ」。この4人で、上位女子グループは成り立っている。実はこの「かすみ」がなかなか曲者なのだが、そこを詳しく説明すると物語の楽しみを損なうのでやめておこう。

女子はほかにも、吹奏楽部の「沢島」がいる。沢島は目立たない存在なのだが、部活では部長を務め、「沙奈」の彼氏である「宏樹」が好きだ。しかしもちろん、そんな想いは報われない。

男子

さて、男子側にも、これらと同じような光景が広がっている。
唯一無二の存在である「桐島」に次ぎ、容姿端麗スポーツ万能な「宏樹」。どうやら野球部だったらしいのだが、練習はずっとサボり続けているようだ。

そして「桐島」「宏樹」と一緒になって、上位グループを構成する「竜汰」「友弘」。女子2位の「沙奈」がそうであるように、2番手・3番手はやはり痛ましい。分かったような下ネタを言って、必死に1位の機嫌をとる。ときにはその下ネタがウケず、なんとも言えない空気が流れる。

そして何より、映画の主人公は「前田」だ。映画研究部で、どう転んでもオタクである。上位グループの「かすみ」とはかつて親しかったが、今や会話をすることもできない。たまたま「かすみ」とイオンで会った「前田」の姿には、落涙を禁じ得ないだろう。

残酷なまでにリアルな生徒たちの姿

ともかくこの映画はリアルだ。

見ていて何度も、「あっ、この光景、見たことある」と思ってしまう。たとえば部活に関して言えば、「実果」はバドミントンが好きなのに、「沙奈」にダサいと思われるので「(目的は)内申書だし」などと言ってしまう。

ところがひとたび「沙奈」と別れると、今度は同じくバド部の「かすみ」に気を遣い、「本当はバドミントン好きだから」と弁明する。「あの人たちにマジメな話してもね」というセリフもまた、グループ内部にくすぶる内紛の気配を感じさせる。

痛々しいではないか。こちらの機嫌にも気をつけつつ、こちらの顔色も伺わなければならない。大人であれば、よほど気に入らない環境ならば「出ていけばいいや」と思えるだろう。しかし子供である高校生たちには、それができないのである。

だから彼らはかわいそうなほど、周囲の機嫌を伺ってしまう。ときには誰かを笑うことで、ときには自分を貶めることで。そうやって、力の均衡を保っている。そういったシーンが、何度も、細かく描き出されるのだ。

たとえば「前田」の持っていた雑誌が、バレー部の男子にぶつかられて弾き飛ばされるシーン。「あ、わり」とは言われるが、そこには気遣いは感じられない。「前田」は怒ってもいいはずなのに、それはできなくて「うん……」とうなずいて雑誌の汚れをぬぐう。

たとえば「沙奈」に反抗したあと、その場を離れる「実果」のシーン。なんならその場で思い切り、言い争ってしまえばいいのに、それは絶対に起こらない。反抗された「沙奈」にしても、その場では衝突を避けておいて、「梨紗」相手に愚痴をこぼすのみ。おまけにその内容は、「あいつ、ムカつく」ではなくて「クラス替わってから、なんか変わったよね」である。

誰もかれもが、本当の気持ちは言わないで、絶対に衝突をしないように、直前のところで踏みとどまっている。

そういったシーンを見ていると、自分の記憶もよみがえって、だんだんつらくなってくるのだ。ホコリがきらきら反射しながら、机に差し込む太陽の光。遠くで聞こえる野球部の練習。進路。塾。恋愛。家庭。
自分が18だったころ、確かに感じた不安や迷いが、胸の奥からえぐり出されて吐きそうになるのである。

「いち抜け」した桐島の存在

さて、こうして薄氷の上に立つ生徒たちの中で、ひとりだけ「いち抜け」した生徒がいる。それは誰か?

答えはもちろん「桐島」である。生徒たちはみな、不安や関係性に押しつぶされそうになりながら日常を送っている。周りに合わせ、絶対にそこから出ないように、本音を押し殺して生きている。

ところが「桐島」ときたら、突然、部活を辞めてしまうのである。大事な大会の前なのに。エースなのに。誰にも相談なく、学校にも来なくなってしまう。

それは激しく調和を乱した。「ずるいじゃないか」という気持ちが、そこらじゅうから聞こえる気がする。みんな従っているのに。みんな我慢しているのに。「桐島」だけは同調圧力から逃れ、自分がやりたいようにしたのだ。しかもその理由を、誰にも明かさないまま。

映画の中では、桐島の退部について、登場人物がさまざまに推理する。
「あいつは完璧型だから、あんまり人間関係よくなかったらしいよ」。いかにもありそうな理由ではないか。しかしそれは単なる噂で、説明にならないと感じたのだろう。「もしかして、桐島の家に借金があるとか?」などと付け足してみる。ともかく理由が欲しいのだ。このギリギリの均衡を、つつがなく続けるための理由が。

しかし理由は明かされない。「桐島」は電話にも出ないし、メールも返さない。だからみんな不安が募る。

そして鑑賞者もしんどくなったあたりで、エンディングは始まる。その最初の歌詞はこうである。「自分だけが置いてけぼりを喰らっているような気がする」……もう、これは結論だろう。

なぜだか泣きたくなる傑作

この映画には、老人も犬も登場しない。奇跡もないし、「ありのままでいい」と肯定もされない。ただ淡々と、光景を見せられるだけの映画。それなのに、どうしてだかすごく泣きたくなるのだ。

きっとそれは、大人になるときどこかへ押し込んだ「自分は何者か」という問いを、もう一度眼前に突きつけられるからだろう。私はどんな人間なのか。私はこれからどうすればいいのか……。そういった、「考えることを諦めた問い」が、ホコリくさい教室の記憶とともに目の前に提示されるのである。この主題は、エンドロールで「宏樹」の肩書きが「(   )」であることからもわかるだろう。毎日に慣れた大人にこそ、ぜひ見て欲しい傑作である。