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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

認知症になった祖母

雑記

久しぶりにわんわん泣いた。祖母が介護施設に入居したからだ。何度か書いているように、祖母といっても実質の親、「母親」として私をここまで育ててきた人である。
そんな人が認知症になり、もはや自分のこともわからず介護施設にいるというのだからこたえた。「老い」や「死」についての考えに、ここ数日はずっと取り憑かれている。

祖母が認知症になり始めたのは私が高校生1年生のころ、夏のことである。それまでも「なんや最近、よう忘れるわ〜」なんて冗談めかして言っていたこともあるけれど、そもそもが60を過ぎての「子育て」である。学校行事も準備物も、いちいち細かく覚えていられないのが普通だろうと、家族の誰もがそう思っていた。

それでも不安になったのか、一度は町医者にかかったこともある。何十年と田舎で医院を営んでいる、典型的な町医者だ。その医師はいろいろと診察をして、「お年です。」と結論を下した。
「お年です、やて。ははは、わろてまうわ。そらぁ、年やわな!」と笑う祖母は、なんだかとてもほっとしていたように見えて、やはり不安はあったのだろうなと今では思う。

しかしそれは単なる加齢ではなかった。徐々に祖母の認知症は進行していって、同じことを何度も尋ねるようになった。私はともかく、祖父はそれに耐えられなくて、「さっきも言うたやないか!」と声を荒らげることが増えていった。そうはいっても気の強い祖母である。「なんべんも言うた、言われたって、覚えられるかいな!」ケンカである。

肉親の私が言うのもなんだが、祖母はとても頭の回転が速く、運動も得意で、とかく「できる人」だったのだ。そんな祖母の衰えを、周りはすぐに受け入れることができなかった。

私は何度も「予定は言うだけやなくて、カレンダーに書いとかなあかんで」と祖父に進言したのだが、そのアドバイスは聞き入れられることはなかった。
字が汚いからとか、面倒くさいからとかなんとか言っていたけれど、きっとその心の底には、祖母の認知症を認めたくない気持ちがあっただろう。だってしばらくして、隠しようもないほどに進行したあとは、きちんと書くようになったのだから。

そして高校生1年生の夏。「宝探し」は始まった。「財布がない」そう言うのである。
祖父と父親は仕事、弟はまだ幼いので、高校生の私が「ゲーム」に付き合った。「あれへんなあ……」

そしてこの「宝探し」、徐々に難易度が上がるのである。はじめは台所の棚に隠してあったものが、布団の隙間になったり、物置の奥になったり。何時間もかけて探しながら、祖母はだんだん泣きそうになっていった。

「こんなんなってしもて、情けない。はよう死にたい」祖母のまるい背中を撫でながら、自分の親の「死にたい」という言葉を、聞いていなければならなかった私。そんな私自身は、誰からも撫でられることなく、高校1年生の夏休みは過ぎ去っていった。

そうしている間に、祖母はだんだん、人が信じられなくなっていったらしい。財布を「なくした」ではなく、財布を「盗られた」と言うようになった。一緒に捜索していた私はさておき、疑惑の目は祖父、父、弟、そして遠くに住む叔父夫婦にまで及んだ。
祖母は財布を3つか4つに分割し、それぞれを別々に隠すことで財産を護ろうとした。「もう、あんただけが頼りやで。あんた以外はもう、信用ならん」と言われるけれど、そんな言葉はひとつも嬉しくなかった。

私についてはこの時期、勉強が滞って、塾のテストで落第し、みんなの前で叱責されたのはこたえた。塾は結局やめたけれど、祖母の怒りは私に向くこともあったから、家ではなかなか勉強ができなかった。同級生はいいよなあ。お弁当まで作ってもらえて。そんな気持ちはあったけれど、言い出せなくて、お昼にはずっとメロンパンを買って食べていた。今でもメロンパンを食べると、手作りのお弁当がうらやましかった、高校の昼休みを思い出す。

さて、ここからは正直、つらくてあんまり記憶がない。高校3年生には父親も再婚して、私と弟の処遇でもめたことを覚えている。祖父母と暮らすか、両親と暮らすか。隣り合った家に住んでいるのだから、どちらでも変わらないような気がして、一応は両親と住むことになった。センター試験の一週間前である。

しきりに私を心配して、祖父母が様子を見に来たが、生活に介入されるのがいやだったのだろう、母親はそれを追い出していた。まあ田舎特有の、チャイムも鳴らさない突然の訪問が不愉快でないかと言われれば、あながちに母親を責めることもできない。ともかくそうやって、私と祖父母の距離は開いていった。

罪悪感を覚えながらも、新しい母親の機嫌を損ねることもできず、だんだんと私は家に帰らなくなった。深夜までアルバイトをして、カフェや大学で時間を過ごして。時折祖母をたずねるたびに、その病状が進行していることを突きつけられて。そうやって、大学4年間は過ぎ去ってしまった。

認知症の後期は悲惨である。物の名前と用途が、だんだんと抜け落ちていくのである。
祖母はハサミにビニール袋をぐるぐる巻いて、「レインコート」と言って私に手渡した。「なんでこれ、ヒモで巻いてあんのん?」「ええ?……便利やろ?」

「レインコート」はまだいいとして、火事になりかけたこともある。
ホットプレートの使い方がわからず、そのままコンロにかけてしまったのだ。たまたま祖父が帰ってきたからいいものの、そのときには、1mほどの火柱が上がっていたという。そんな状況を、祖母はどうすることもできず、ぼんやり見つめていたそうだ。このあたりから、家族もさすがに「施設」という言葉を検討するようになってきた。

加えて徘徊も始まった。気付けばどこかへ行ってしまうのである。あるときは何キロも離れた山中で、たまたま通りがかった村の人に見つけてもらったらしい。互いが顔見知りのムラ社会であるからいいようなものの、これが都会だったらと思うと、きっと帰ってはこなかっただろう。
行き先をたずねると、祖母はそっと「家へ帰る」と言ったらしい。遠く離れた祖母の生家、家族はみな、死んでしまった生家へである。

この正月に帰ったときには、祖母はぼんやりとした笑顔で、「ここは誰の家ですのん?」とつぶやいた。「おばあちゃんの家やで」「あら、あなたの、おばあさんのおうちやのん?立派やねえ……」

もう祖母は、自分の孫すらもわからないのである。「夫の妻」としての祖母、「息子の母親」としての祖母。そして、「孫の母親」としての祖母。
その全てのアイデンティティは、祖母の中から消えてしまったのだ。祖母はひとりの「xx子さん」となって、大きな農家の「おとんぼ」であり、兄や姉らに守られていた時代に帰ってしまったのである。

これは今の家族にとっては、死別に等しい悲しみではないか。あたたかい肉体だけは目の前にあるけれども、その記憶は永遠に、失われてしまったのだから。もう祖母は、私の進路についてたずねてくれない。ボーイフレンドの写真を要求しない。私の服にいちゃもんもつけない。一緒にイオンにも行けないし、縄跳びだってしないのだ。

もはやパーマもかけず、眼鏡もかけず、長らく化粧もしなくなった祖母を前に、私は後悔にさいなまれている。

あのとき、もっと早く大きな病院へ連れて行ったら。あのとき、両親に引き取られず、祖父母と暮らす道を選んでいたら。あのとき、早く実家へ帰っていたら……。

過ぎた10年の間には、あらゆる「もし」が転がっていて、そのどれもが今よりましな未来をくれただろうという感じがする。
考えても意味のないことと分かっていても、同じくらいの年の人々が元気そうなのを見てみると、「どうして私のおばあちゃんが……」と思わずにはいられないのである。私の生母が死んだのがいけないのか。親が再婚したのがいけないのか。私が院へ進んで、家を出て行ったからいけないのか。

誰が悪い。誰を責めればいい。「病気」ばかりは、責任をなすりつける先がない。だからこそ、悲惨なのである。

なお、最近では、認知症が「進む前」にそれを発見し、薬の力で信仰を遅らせようとする向きがあるらしい。そしてそのための検査も、徐々に発展してきているようだ。

しかし実際にMCT(軽度認知障害)と診断されると、これまでは「年のせい」と気楽にしていた人が、突然自信をなくして、ふさぎこんでしまうらしいのである。
そうして打ちひしがれた本人や家族は、誰からもケアをしてもらえない。「ぼける」恐怖に襲われながら、以前よりもむしろ消極的な、暗い気持ちで生きていかなければならないのである。すべての気持ちは、置き去りなのか。それは本当に、「治療」と言えるのだろうか?

これから先、超高齢化社会は確実に訪れる。医療の進歩によって、自然にしていれば助からない人もじゃんじゃん助かるようになるだろう。しかし肉体は助かっても、記憶や精神は助からないこともある。それはまわりの家族にとって、「肉親との死別」に等しい悲しみを覚える状態ではないか。おまけに今は、まわりの家族のケアにまで、手が回っていないのが現実なのだ。

「特養の方には、空きがのうて、まだ入られへんのや」「死人が出たら、入れるんやと」
祖父は電話でそう言っていた。ショートステイの利用は、町の援助を受けても月に20万ほどかかる。どう生き、どう老いるのか。そしてどう死ぬのか。われわれ一人ひとりが、決断をせまられる時代がやってきている。