読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

人生の「未履修科目」

雑記

最近、とある人から「幼児期が未履修」だと言われた。未履修。必修の授業を、きちんと受講していないことだ。私はこの言葉を聞いて、なんだか救われた気持ちになった。

私は母親を8歳でなくしたので、高校卒業までは祖父母の家で育った。父親はいたが、仕事で精一杯という感じ。あまり育児には関わってこない。そういうわけだから、私にとっては祖父母が実質の両親だった。

祖父母は私たちきょうだいを何不自由なく育ててくれた。しつけは多少厳しかったが、金銭的な話をすれば、むしろ贅沢めに育ててもらった気もする。色鉛筆がいると言えば、「どうせやったら、ええもんを使わなあかん」といって即座にユニの24色鉛筆を買い与えてもらった。友達の誰もが持っていない、鮮やかなナイルブルー。おかげで学用品の面では、なんのみじめさもひもじさも感じたことがない。「片親や思て、なめられたらいかん」何度も何度も、確かめるように念じていた祖母。そのおかげで、私は今、ここにいる。

それでもおそらく、どこかに抱えこんだものはあったのだろう。思えば子供のころから、遠足の準備も修学旅行の準備も、学校説明会も模試も入試も、すべて自分でなんとかしてきた。なんとかできた。近所の人も先生も、えらいねと褒めてくれた。だからもっと頑張った。高校生になったころには、弟のPTAの会合にも私が出向いた。参加している保護者の中には、私の同級生のお母さんもいた。そんなお母さん方が、目を丸くして私を見ていたのを、おぼろげに覚えている。

私はそのまま大学生になり、アルバイトをし、大学院生になって、フリーで仕事も取ってくるようになった。「若いのにきちんとしている」と言われる。けれども私は、自分の成長不良なところをよくよく知っている。

たとえば親友と、たとえば恋人と過ごしているとき。私は驚くほど幼稚になって、泣いたりすねたり怒ったり、まるで子供のような態度を取ってしまう。構ってくれないと機嫌を損ね、わがままな欲求を相手に押し付けてしまう。

それはまさに幼児のすることで、「誰かしらそういうところがある」という類のものではない。私はそうやって、相手をはかっているのだ。自分の幼さを、自分の独善的な態度を、どこまで許容してくれるか。傷つけ、困らせ、惑わせ、怒らせ、それでも自分の近くにいてくれるかどうか。そうやって、相手のことをはかっている。

こういったものは本来、親に求むべきものだったのだろう、と思う。
ちょっとくらいへまをやっても、最後は受け入れてくれるという安心感。
メリットがあるから、目的があるからではなく、ただ一緒にいてくれるという関係性。

これらは基本的には、家庭で与えられる(とされる)ものだ。そして家庭で与えられなかった場合、よそで満たすのはむずかしい愛情だ。大人の関係にはいつだって、メリットが、目的が、どろどろしたものがつきまとう。他人がうそぶく「無償の愛」なんて、それこそ危険の塊だと個人的には思う。

さて、こうした「埋めようのない欠落」について、私は時折、とても悲観的になる。

世話をすべき対象だった弟は社会人になり、齢25にして「空の巣症候群」にも似た気持ちを抱えている。しかしその一方で、友達や恋人には幼児のような甘え方をしてしまう。

折れた木がいびつな成長を遂げるように、私はいびつな大人になった。片方では年不相応な老いを、もう片方では年不相応な幼さを抱えて生きている。家庭で手に入らなかった安心感は、胸の奥に砂漠のような場所を残した。いくら人が愛を注ごうとも、けっして潤うことはない砂漠。そんなものを胸に飼いながら、なんとか顔だけへらへらして、そうやって生きている。

そんなわけだから、私は自分の存在にまったく価値を見出せなかった。自分のことを「欠陥品」とみなして、それで絶望していた。壊れたものは元に戻らない。壊れた人間も元に戻らない。私には「欠陥品」としての一生が待っている。そんな一生を、楽しもうとも思えなかった。

ところが冒頭の「未履修」である。必修でありながら、それを履修していない状態。それを自分に当てはめると、なんとも希望のある言葉ではないか、と思えたのである。

たしかに私は幼児期を「履修」してこなかった。そのせいで、次へ進めないカリキュラムだってある。しかし、事実は「ただそれだけのこと」だ。履修していないなら、これから履修していけばいい。健全な関係の作り方も、相手を傷つけない甘え方も。これから少しずつ、時間をかけて覚えていけばいい。ただ、それだけのことなのだ。

言葉の力は偉大だと思う。これまで長く私を苦しめ、先の人生を見えなくさせていた問題が、驚くほどに簡単に思えた。そうだ。私には成長不良のところがある。だからこれから先は、自分で自分を育てていこう。今はそんな風に、前向きに捉えることができるようになっている。