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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

『万葉集』における「発言小町」案件

雑記

私の入学した学部は、教育も福祉も文学も語学も言語学も、すべてがごった煮のようになった学部だった。

経済学部だけはかろうじて独立していたが、ほかの「文系」っぽい学問はすべて乱暴に突っ込まれていた。乱雑なくくりには「文系軽視」という声もあったが、早い段階で専門を決めることなく、いろいろな分野を「つまみ食い」できるというメリットも一応あった。少なくとも私は楽しかった、と、思う。

4年間でいろいろな授業を取ったが、中でも心に残っているのは、万葉集の授業だ。さまざまな歌の解釈を聞きながら、「昔の人も、やることは変わらんな」なんて考えていた記憶がある。
笑ったり泣いたり、怒ったり悲しんだり。きっと今とはそんなに変わらない人生が、そこにはあったのだろう。

というわけで、今日はその中でもとくに記憶に残った大伴家持の歌を紹介する。紹介するのは万葉集の巻18、4106番から4110番にかけての歌だ。

これらの歌は、いわゆる「連ツイ(連続ツイート)」みたいなもの。テーマとしては、大伴家持が、単身赴任している部下の浮気をいさめる歌だ。なんというか、良くも悪くも、ホント昔も今も変わらねえなって感じの歌なので、ぜひ楽しんで欲しい。

題詞(前置き)

とりあえず、連ツイの前置き(題詞)を読んでみよう。なお、今回の記事では原文を載せるだけでなく、私のへろへろな現代語訳も一応載せておく。

史生尾張少咋に教へ喩さとす歌一首 并せて短歌
七出例に云はく、「ただし一条を犯さば、すなはち出だすべし。七出なくしてたやすく棄つる者は徒一年半なり」といふ。
三不去に云はく、「七出を犯すといへどもこれを棄つべからず。違ふ者は杖一百なり。ただし、姧を犯したると悪疾とはこれを棄つること得う」といふ。
両妻例に云はく、「妻ありてさらに娶る者は徒一年。女家は杖一百にしてこれを離て」といふ。
詔書に云はく、「義夫節婦を愍み賜ふ」といふ。
謹みて案ふるに、先の件の数条は、法を建つる基にして、道を化ふる源なり。しかればすなはち義夫の道は、情別なきに存し、一家財を同じくす。あに旧きを忘れ新しきを愛しぶる志あらめや。このゆゑに数行の歌を綴作し、旧きを棄つる惑を悔いしむ。その詞に曰はく、

(「史生尾張少咋」さんに説教する歌シリーズ)

(中国の法律に、「むやみやたらと離婚するな」っていうのがあるでしょ?夫婦がお互いを大事にするっていうのは、世の中における基本の「き」だと思うわけですよ。古女房を捨てて新しい女を作っちゃうとかマジ論外。と思ったので、大伴家持さんは以下のような歌を作ったわけです。)

うーむ、のっけからなかなかデンジャラスだ。発言小町」みたいな雰囲気。一体どんな展開が繰り広げられるのだろうか。

4106番(長歌

そして始めの歌がスタート。

大汝 少彦名の 神代より 言ひ継ぎけらく 父母を 見れば貴く 妻子見れば かなしくめぐし うつせみの 世の理と かくさまに 言ひけるものを 世の人の 立つる言立 ちさの花 咲ける盛りに はしきよし その妻の子と 朝夕に 笑みみ笑まずも うち嘆き 語りけまくはとこしへに かくしもあらめや 天地の 神言寄せて 春花の 盛りもあらむと 待たしけむ 時の盛りそ 離れ居て 嘆かす妹が いつしかも 使ひの来むと 待たすらむ 心さぶしく 南風吹き 雪消溢りて 射水河 流る水沫の 寄るへなみ 左夫流その児に 紐の緒の いつがりあひて にほ鳥の 二人並び居 奈呉の海の 奥を深めて さどはせる 君が心の すべもすべなさ
「左夫流」といふは遊行女婦の字なり。

(この世の中が神様の時代だったときから、両親はリスペクト、妻子はラブっていうのが世の中の真理だったわけですよ。あなただって、家では妻とラブラブだったでしょ?残してきた妻がどんだけ寂しがってるか考えてやりなさいよ。そんなキャバ嬢に入れ込むなんて、ほんと、情けないわあ……。)

なるほど。この歌を読むに、どうやら「史生尾張少咋」は、「左夫流」という名前の女に入れあげているらしい。

「遊行女婦」とは「うかれめ」「あそびめ」のことで、各地を回って芸を披露し、売春もした女のこと。枕営業もするキャバクラ嬢、という感じで理解すればいいだろうか。うーむ、どうしようもない男だ。

4107番〜4109番(短歌)

説教はまだ終わらない。このあとにも、反歌*1が三首続く。

あをによし 奈良にある妹が 高々に 待つらむ心 しかにはあらじか
(奈良で待ってる奥さんの心を考えるとさあ……わかるでしょ?)

里人の 見る目恥づかし 左夫流児に さどはす君が 宮出後姿
(ほら、地元の人が見てるよ。恥ずかしくないの?キャバ嬢のことで頭いっぱいのまま、出勤するっていうのはさあ。)

紅は うつろふものそ 橡の なれにし衣に なほ及かめやも
(紅色はすぐ色褪せるじゃん。そりゃあ、ちょっとは地味かもしれないけど、着慣れた橡色の着物のほうが、やっぱりいいでしょ?)

さすがは大伴家持。あの手この手で、部下の浮気を説得している。妻の気持ちを思いやらせたり、恥ずかしいぞと怒ってみたり。ていうか、どれだけヘラヘラしてたんだ、史生尾張少咋。

4110番

さて、ストーリーは4110番で、とんでもない展開を見せる。4107番〜4109番の歌を詠んだ2日後のこと。

題詞
先妻、夫君の喚ぶ使ひを待たずしてみづから来たる時に作る歌一首
(史生尾張少咋の妻が、夫の使いを待つことすらせず、自ら来たときに詠んだ歌)

左夫流児が 斎きし殿に 鈴掛けぬ 駅馬下れり 里もとどろに
(浮気相手が我が物顔で入り浸っている家に、特急の馬がやってきた。里にその音をとどろかせながら。)

なんてこった、カチコミだ。浮気野郎の妻は、どこで知ったか夫の浮気を聞きつけると、みずから特急の馬に乗り、単身赴任先に突入してきたのだ。夫の家には、くだんのキャバ嬢が我が物顔で居座っているというのに……。

修羅場も修羅場である。「里もとどろに」という句がなんとも恐ろしい。おまけにこのシリーズ、ここで終わってしまっているのだ。カチコミをかけられた夫と浮気相手がどうなったのか……。それは永遠の謎である。

千年経とうが、人は変わらない

万葉集』といえば日本最古の和歌集であり、その名を知らない人はあまりいないはず。しかし中身については、案外、知っている人は少ない。「歴史の教科書で見た」ってな感じで終わっている人も多いのではないだろうか。

万葉集に限らず、古典は得てして、こういう扱いをされがちだ。使われている言葉が古いせいか、どうしても「高尚なもの」「難しいもの」というイメージで捉えられることが多いように思う。

しかし、いざその内容を紐解いてみると、グッと俗っぽい話だってたくさんある。梅を見ながらパーティを開く歌、出張先にいたカワイ子ちゃんをナンパする歌。昔の人々だって、自分たちとは大して変わらない、生身の人間なんだなと思ったりする。

そしてそういった親近感を持った上で、改めて「名著」と言われるものを読むと、なんだかもっと古典が楽しくなる気がするのだ。

狂おしいほどの恋に燃え、自ら命を絶ってしまう人。政争に敗れ、住み慣れた都を追われる人。病にかかり、残りの命を思いながら横たわる人。

いろいろな人がいて、いろいろなことを表現する。その中で、とくに勉強になる言葉、心にしみる言葉が生まれてくる。「詠み手もまた、生身の人間である」という意識をもった上で鑑賞すると、いろいろなことがより身近に感じられる。そう思うのだ。

最後に

それでは最後に、私が万葉集の中で最も気に入っている、長奥麻呂(ながのおきまろ)の歌を紹介して記事を締めくくろう。巻16、3827番の歌だ。

一二の目のみにあらず五つ六つ三つ四つさへあり双六のさえ
(すごろくには、1と2だけじゃなくて、5も6も3も4もあるんだよなあ。)

は????
何が言いたいのか全くわからん。オタクのツイッターみたい。オタクだったのかな。好き。そんな感じです。

*1:長歌のあとに、補足や追記として詠む歌