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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

女子会と趣味と書くことと

雑記

久々に高校の同級生たちと「女子会」をした。女子会といってもいわゆる「恋バナ」は全く登場しなくて、互いにスマホの画面を見せ合いながら「最近はこのゲームやってる」「推しが尊い」ってな感じの話ばかり。恋人がいる子も多いはずだけど、まあ、それとこれとは話が別なのだ。
高いレストランでなくとも、安いコーヒーをおともに何時間も語り合える。そういう時間を持てる友達がいるのは、実はたいへん幸せなことだと最近になってよく思う。

友達はみんな社会人になっていて、だいたいが「とりあえず3年」を終えたところだった。それぞれの業界の話を聞くのはけっこう面白くて、なんだかんだで楽しくやっている、という。

話は休日の過ごし方にうつる。
広い意味で「オタク」気質の友達どうしとはいえ、その守備範囲はけっこう幅広い。舞台や音楽を楽しむ子、スキーや射撃を楽しむ子、ゲームやイベントを楽しむ子。「土日の私は、平日の私とは違う世界を生きてるから!」とは友達の言。その姿は、ほんとうに生き生きしている。

では、とうの私はどうか?
思えば週に7日間、とくに抑揚のないスケジュールで過ごしている。朝起きて、なにか書いて、読んで、食べて、寝て。そこに家事がはさまるくらいで、用事がなければ外にも出ない。というか、用事があっても、出ない。明らかに髪はのびすぎなのに、切りに行く気力が、ない。

本は読むが、それは研究のための書籍か、とおまわしに研究につながる書籍だ。
カフェには行くが、それは取材のためであり、私自身の趣味とはいえない。
写真は撮るが、それは仕事の技術向上のためであり、純粋に自分のためではない。

改めて考えてみると、そのすべてが仕事や研究につながっている。
かろうじて趣味と言えそうなのはこのブログくらいのものだが、そもそも私の研究対象は「(ご想像にお任せします)」であり、言語そのものが考察の対象なのだ。書き手・語り手として書きながらも、その背後にあるメカニズムを常に気にしてしまう。これでは研究をしているのだか、離れているのだか、まったく区別することができない。

友人からは、いろいろと趣味の候補を提示してもらった。
とくに提案の多かったのはスポーツで、やはり無心で体を動かすのは気持ちが良いらしい。京都には手頃な山も多いことだし、登山などしてみてはどうか、ということだった。

提示してもらった趣味はどれも魅力的なもので、ぜひやってみたいと思う。
しかし私はどうしても「言語化」の罠から逃れることができない。何かを体験して、それが心に残れば残るほど、それをどう表現すればよいか考えてしまう。気分を転換するのは、どうしてこんなにも難しいのだろうか。

ネット上の「伝説」に、こういうのがある。
某汚れ芸人が、こういう趣旨の発言をしたというものだ。

「生まれつき目が見えない人に、空の青さを伝えるには何て言ったらいい?こんな簡単なことも伝えられないようじゃ、俺は芸人失格だよ」

「汚れ芸人が、本当はとてもまじめで優しい人だった」というタイプの「伝説」だ。残念なことに、これらはすべて「デマ」だと本人が否定しているようだが、その問いかけ自体はふかく私の胸に刻みつけられた。どうすればいい。どう書けばいい。どういう言葉を使えば、伝えられるんだ?

この「名言」では「目の見えない人」が引き合いに出されているが、なにもそういった人だけが対象ではない。

スイスへ行ったことのない人に、ユングフラウの雄大さをどう伝えればよいか。病気にかかったことのない人に、その恐ろしさをどう伝えればよいか。貧困に陥ったことのない人に、その苦しみをどう伝えればよいか。

言葉はいつも私のそばにあって、私をはげしくさいなむ。仕事でも研究でも趣味でも、文章を書いては悩み、書いては悩みしている。「ボールは友達!」ではないけども、いつか「言葉は友達!」と言える日が来るのだろうか。そんなことを、時折考える。

結局、新しい趣味はその場ではきまらなかった。そして今日は、なんだか動くのも億劫で、朝からずっと布団に横になっている。自覚はなかったが、相当疲れていたらしい。気のおけない友達と会ったことで、気が緩んで疲れが出たのだろう。
屋台で買ったドライフルーツをかじりながら、道路の喧騒を聞いている。