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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

「私」の危うさと『ドーナツホール』

雑記

「ドーナツの穴みたいにさ 穴を穴だけ切り取れないように
あなたが本当にあること 決して証明できはしないんだな」

ハチ MV「ドーナツホール」HACHI / DONUT HOLE - YouTube

ハチ(米津玄師)『ドーナツホール』の歌詞である。私はこの歌詞に、いつもウンウンとうなずいてしまう。そうなのだ。「自分」とは、まさに「ドーナツの穴」の部分なのだ。

私たちは、自分で自分の存在を証明することができない。目の前にあるものをさして、「コップがある」と言うことはできる。「テレビがある」と言うこともできる。けれどもそれが「自分」になると、ちょっと怪しくなってくる。「私がある」、本当にそうか?私はほんとうに「ある」のか?

私はときおり、こういった思考の迷宮にとらわれてきた。思えば随分小さいころから、「リンゴが食べたい」と考える私の思考と、それをメタ認知する私の思考をおもって引き裂かれてきた。

「リンゴが食べたいと考える私」「リンゴが食べたいと考える私をモニターする私」「リンゴが食べたいと考える私をモニターする私をモニターする私」……。それは終わりのないマトリョーシカのようだ。

小さい私はこの課題を解決することができず、じっくりと目の前の手を見つめてみた。するとどうだろう、目の前の手が、しだいに自分のものではないような気がしてきた。

この手は「私のもの」なのか?単なる肉片ではないのだろうか。ほんとうに、私の意識の管轄下に、あるものなのか。

そんな気持ちになって。思わず指を噛んだことを覚えている。にぶく響く痛覚に、「まあ、とりあえず私のものなんだろう」と得心して、それで大人までの時間をすごしてきた。
今でも不安にさいなまれると、ついつい自傷めいた行為に走ってしまうのは、「自分の存在」を確かめる方法が小さいころから変わっていないせいだろう。

こんなふうに考えを進めてゆくと、何とも「自分」はたよりない存在に思えてくる。
私はほんとうにあるのだろうか。次の瞬間、消え失せているのではないだろうか。そんな、拠り所のない気持ちすらめばえてくる。それはとても不安で、くるしい考えだ。

では、そんなくるしい考えを、どうすれば解決することができるだろうか?
それがおそらく、『ドーナツホール』なのだ。

ドーナツの穴は、単体では存在することができない。それを取り囲むものがあってこそ、まあるい「穴」という形で浮かび上がり、存在することができる。まわりの部分がなければ、それはただの虚空であり、輪郭を持たないものだ。

そして私たちもまた、「ドーナツの穴」なのだろう、と思う。たとえば家族、たとえば友人、たとえば所属組織などとの関係が、「私」のまわりを取り囲む。そうして、「私」は「ドーナツの穴」として存在することになる。

ここでもし、その人数が少なかったらどうだろう?みっちりと取り囲むのではなく、ところどころ「歯抜け」のようになっていたら。かろうじて円の輪郭は認識できるだろうが、やっぱりどこか心もとない。

人数がもっと減って、もっと減って……となれば、そのうち円の輪郭は消失してしまう。
人がまわりから孤立したとき、自分のことを無価値に思ったり、存在を危うく思ったりするのは、きっとこういうことが理由なのではないか、そんなふうに思ったのである。

私をふくめ、とくに元気のない人は、みなどこかに孤独を抱えている。
話し相手もあまりおらず、ネットを通して、なんとか人の息づかいを感じてしのぐ。
それは部屋に閉じ込められたまま、わずかな隙間から酸素をもとめるような行為だ。かろうじて生きてはいるが、そのままだといずれ死ぬ。人は孤独には、驚くほど弱い生き物なのだ。

それを解決する方法は、まだ思い浮かばないが……。最近読んだ本などをとおして、「孤独」というテーマが私の中では重要になってきていることを、ひとまず報告しておく。