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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

縁側の記憶

雑記

実家の母屋には縁側があって、座敷側と庭側にガラス戸がついていた。両方のガラス戸を締め切ると、長細い密閉空間ができることになる。この空間がとても快適で、春になれば必ずここで昼寝や読書をしたものだった。

締め切った縁側は温室のようにぽかぽかしていた。マットレスと毛布を持ち込み、転がりながら本を読む。飼っている猫がちょっかいを掛けにきて、一緒に眠ることもある。祖母がお茶を持ってきてくれる。庭で干した毛布を、祖父が投げ入れる。山積みになった毛布に潜り込むと、太陽のにおいがする。

季節は頭で覚えるものではなく、体にしみ込むものらしい。一人暮らしを始めた今も、ふとしたタイミングでこうした「体の記憶」が意識にのぼってくることがある。きびしい冬のあとについて、確実に訪れつつある春。頭より知識より、体が先に「あの縁側」を求めている。

しかし、と思う。
今、あの時間を体験するためには、私は一体どうすればいいのだろう?

思えば実家を出てから、「縁側での時間」と同質のものを体験することはなくなった。いや、できなくなった。頭は常に何かの締め切りに急き立てられ、たとい休みの日であっても「明日は何、明後日は何」という考えが頭をちらつくからだ。

期限つきの休みを、人は心から楽しむことはできない。子供の時分は、「今」以外の時間は考えることができなかった。「1学期」といえば途方もなく長いスパンであって、「1年」以上の単位は存在しないも同然だったように思う。

大人になった今では、「1学期」、つまり3ヶ月程度の期間はむしろ「短い部類」に入る。すべての計画は半年とか1年単位で立てられており、平気な顔で次の季節の計画を練る。そんな時間の流れ方に、だんだんと慣れてきている。

そういった過ごし方をする中で、「今」という時間はかけがえのないものではなく、代替可能な1ピースになってしまった。もはや「今日」は独立した1日ではなく、「今週」や「1月」、「修士課程」を構成する要素に過ぎない。

全体の中で、特別さを失ったもの。研究計画を立てていると、ふとそんなことが悲しくなる。