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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

ビュフォンは言った、「文は人なり」

何かについて書けば書くほど、己の姿は浮き彫りになる。

たとえば「パーティ」ひとつを例に取ったって、それを「楽しい場所」と書くか「めんどうな場所」と書くかによって、「私はパーティを楽しめる人間 or 楽しめない人間です」と表明することになってしまう。「自分は____な人間です」と直接定義するのはとても難しいのに、「何かについて書く」と、呆れるほど正直に自分の姿が浮かび上がってくる。こんなことを確か、村上春樹だって言っていたはずだ。

文章のもつ、そういった性質のことはよく分かっていたつもりだったけれど、今までそれは「創作」ジャンルのことだけだと思っていた。たとえばエッセイとか小説とか、一般的に個性を「出す」ことが求められる創作と違い、個性を「消す」ことが求められるはずの「論文」では、そういったことは起こり得ないと思っていた。

しかしどうやらそれは私の勘違いだったらしい。手元の論文ドラフトを眺める。先生のほかに2人ほど、先輩に見ていただいたので、3人分のコメントが書き込まれていることになる。そしてある箇所には3人分、同じコメントが書き込まれている。つまりは「もっと自信をもって書け」という旨の言葉が。

私は自分に自信がない。それは研究上でも同じことだ。手元のデータは面白い事実を示しているはずなのだけれど、「面白い」と感じる自分の気持ちを信じることができない。あちこちから攻撃される未来ばかり想像してしまう。そんな情景を、何度も夢に見たくらいだ。数ある論文の中には、自信満々に「どうだ見ろ!!」と言わんばかりの書き口のものもある。すごいなと思う。私には到底、書けそうにもない。

私が考察を書くときの気持ちを文章化すればこうだ:
「えっと、面白いと思うんですけど、わからないです、いやどうだろう?面白くないかもしれない。でも面白いと思います。多分。いやわからない。すみません」

こんな頼りない自分は、いくら「アカデミックな書き方」で表現を工夫したって、自然と表に出てきてしまうらしい。Le style est l’homme meme. 3年後に執筆するはずの博士論文では、今よりもっと強気な文章が書けるようになっているのだろうか。