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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

「手づくり」随想

京都は「手づくり」が盛んな街だ。都の立ち位置を奪われ、単なる観光都市へと凋落した今でさえ、職人の息づかいだけは確かに街へ染み込んでいる。それはハイカルチャーな「伝統工芸」だけでない。庶民が普段から使う道具にも、おそらくほかの都市に比べれば「手づくり」品が多いのではないかと思う。

さて京都市内では、毎週のようにどこかで「手づくり市」が開催されている。規模は大小さまざまだが、植物園やお寺の境内などを会場として、割と大きめのマーケットが開かれている。出品されているものも多種多様で、アクセサリー類や雑貨といった「よくある」雰囲気のものもあれば、ミニチュア甲冑や大型の壺など、「ガチ」な雰囲気のものもある。食品もあるのだが、これもまたスコーンやパンといった「軽くてオシャレ」なものから、ちりめんじゃこや漬物といった「ガチめで渋い」ものまである。

かくいう私も、手づくり市で買った素焼きのマグを使っている。鮮やかな勿忘草色が目について買ったものだが、嘘のように軽い。私の腕はとても非力だ。人生で一度も腕立て伏せを成功させたことがない。引きこもりのオタクには、普通のマグカップは重すぎるのだ。作業中、ばかみたいにコーヒーを飲む生活をしているから、これから先もこのマグ以外を使うことはもう考えられない。

素焼きのマグでコーヒーをすすりながら、私は貧乏人だから、どうしても経済の問題に目がいってしまう。果たしてあのおじさんの懐は大丈夫なのだろうか。マグはひとつ2500円。それが高いのか安いのかはわからない。材料の土はいくらくらいするのだろう。窯を設置する費用はどうやって捻出したのだろうか。そもそも手づくり品って儲かるのか?

なんとなくだけれど、手づくり品を好んで買う人たちは、現代社会の短い消費サイクルをあまりよく思っていない気がする。となると畢竟、「メインの客層があまりモノを買ってくれない」という悲劇が起こるんじゃないだろうか。錦市場の包丁屋では、買った品物はいくらでもメンテナンスしてくれる。だから客が新しい包丁を買うのは、1本目を買ってから30年後になることもあるらしい。本当かどうかは知らないけれど……。メンテナンスでがっぽり儲けるビジネスモデルならまだしも、そういうわけでもなさそうだ。いったい、どうなっているのだろうか?

芸術論の授業で、文化財の保存に関する話を聞いた。テーマは民芸品で、それを作る「窯」をどうやって保存していくべきかという話だった。窯は土でできているから、使わないで放っておくと、少しずつ崩れていくものらしい。人が住まなくなった家が、恐るべき速度で荒れ果てていくのと同じようなものなのだろう。

それを食い止めるための方法には、ケミカルなものをはじめとして、色々とあることにはあるようだ。しかし、やはり問題は「費用」である。いったい誰がお金を出して、それを保存するのか?

民芸品は基本的に、生活の道具である。基本的には「1点もの」の「芸術作品」とは違って、作家性がうすく、同じ形のものが数多く造られる。機械生産がまだなかったころの、「庶民向けに大量生産された品」だったのだろう。しかしながら現代では、庶民向けの「生活の道具」は機械での大量生産品に取って代わられてしまった。民芸品は、いささか宙ぶらりんな立場に置かれてしまっているそうなのだ。

そうなると、色々と状況が難しくなってくる。もはや日常生活の道具ではないから、大量に売れるということがない。かといって、1点あたりの値段をべらぼうに高くするわけにもいかない。結果として、今は「おみやげもの」というジャンルに組み込まれたり、「芸術作品」寄りのハイカルチャーの一部として消費されたりしているように思うが、「西陣織」とか「輪島塗」クラスに有名なものならまだしも、相当うまくやらないと「経済的に大成功」とはいかなさそうな気がする。かくして「窯」をはじめとする文化財は、使われないまま、保存されないまま、自然に還っていく(らしい)のである。

絶滅した生き物が二度と地球上に蘇らないように、文化もまた、一度失われてしまえば取り戻すのは難しい。それはとても悲しいことだし、できればすべて保存してほしい。これはとても人間的な感情だと思う。しかしその一方で、お金がなければどうしようもない一面もある。京都の「町家」にしたって、実は空き家率が結構高いそうだ。「町家カフェ」なんてオシャレなものに変貌を遂げ、多くの人が訪れる町家がある一方、相続の問題や補修費用の問題で放置状態となり、朽ち果てていく町家もある。京都市はなんとか「京都らしい」景色を維持してほしいと躍起になっているけれど、「ほな、誰がお金出してくれはんの?(どうせ自分で出さなあかんのやろ?)」と冷ややかな反応も目立つ。何もかもが噛み合わないのだ。

京都は「手づくり」が盛んな街だ。しかし都の立ち位置を奪われ、単なる観光都市へと凋落した今では、職人の息づかいすら資本主義の枠組みに組み込まれている。「べき」論だけでは切って捨てられない難しさが街中に張り巡らされている。いつのときだったか、イチョウ並木を気分よく歩いたあと、その道に面したお店の主人と会話をしたら、「イチョウの葉ぁが落ちてかなわん!ゴミ袋もタダやないねんで。ほんま市長は、見た目ばっかり気にして……」とご立腹だった。なんだかすべての問題に通底している気がした。