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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

logicool MK245 NANOの購入と設定

出版小ネタ

Macの美しさは議論の余地がない。アルミユニボディの上品な輝き、そっと光るアップルマーク。使っていて変なアドレナリンが出るほど、マジ半端ないマシンのはず……なのだが。

キーボードだけはいただけない。なんだ、このペチペチした感触は。しばらく使えば慣れるものかと思ったが、一向に慣れる気配はなく、しかし仕事は増えまくっている。
だんだん手の健康が損なわれてきたので、キーボードを変えてみることにした。今日は、その設定などについてまとめてみる。

logicool MK245 nanoを買う

キーボードを買うにあたっては、デバイスに自信ニキからさまざまなレコメンドをいただいた。
やはり人気なのはHHKBやREALFORCE。無刻印のHHKBは超かっこいいし、打ち心地も気に入った。

ここで「超かっこいい」とか言うと、「デバイスの見た目しか気にしないやつに、HHKBはオーバースペックw」みたいな煽りを食らいそう。しかし私は、仕事道具にはスペックと同時に「テンション維持」の機能も必要だと思う。カッコいい道具を使った結果、テンションが上がって生産性が高まるなら、それはそれで投資に値する(仕事が溜まってきたときに、マニキュアを丁寧に塗っておくのも、結局はそういう意味合いである)。

閑話休題、キーボードの選定に戻る。HHKBは気に入ったが、やはり高い。もだもだしながらヨドバシカメラをうろついた結果、「logicool MK 245 NANO」が気に入った。

「ロジクール ワイヤレスコンボ MK245 NANO」9月15日より発売

値段はマウスもセットで2400円程度。タイピング音も、「いかにも仕事してます!!」感が出ていてよろしい。この値段なら、万が一失敗であっても諦めがつくだろうと感じ、とりあえず購入した。

Karabinerを使ってキーの配列をいじる

MK245 NANOは、キーボードもマウスも1つのレシーバーで接続できる。コード類がごちゃごちゃしないのでありがたい。コードが机に氾濫すると、だいたいコーヒーをこぼすからね。

無事に接続を終えて使ってみる。やはり使い心地はいい。ただし問題がひとつあって、配列がWindows用なのだ。

Mac配列のキーボードは、探したけれど、なんかビミョーなのしかなくて買わなかった。Windows用のキーボードも、大体は慣れで解決するのだが、「日本語かな」「英数」の切り替えがサッといかないのだけは参った。これはなんとかしなければならない。

調べた結果、Karabinerというカスタマイズツールが見つかったので、インストールする。
フル機能版はOS X Sierraには非対応だったので、機能が限定されているものの、Sierra対応のKarabiner Elementsを使うことにした。

Karabiner - OS X用のソフトウェア

ダウンロードしたら、このサイトを参考にしてキーボードを設定する。私の場合、「無変換」キーを「英数」、「変換」キーを「かな」に設定。これでデフォルトのキーボードと同じように、簡単に入力が切り替えられる!(キーの配列は、Karabiner起動中しか変更されない。Karabinerは常駐させておこう。)

obakesan.net

まとめ

というわけで、今回はlogicoolのMK245 NANOを購入し、キー配列をいじってみた。キーボードが違うと、仕事の進捗が全然違う。詰まった原稿もサクサク書ける。さっそく研究室のメンバーにも宣伝してきた。土日もこいつと楽しく原稿を書こうと思う。

介護施設への見舞い

雑記

祖母を見舞いに、介護施設へ行った。以前「認知症になった祖母」で書いた通り、祖母は重度の認知症であり、自立した生活がもはや困難である。ところが特別養護老人ホームには空きがない。そのため、1日ごとの契約をするショートステイにお世話になっている。

ショートステイの利用料は、聞くところによると、所得に応じて変わるらしい。年金や資産額に応じて、1日あたりいくらと決まっているようだ。施設には一人部屋と二人部屋があり、当然、一人部屋のほうが高い。我が家は所得が低いので、二人部屋のお世話になっているということだ。

実家へ帰り、祖父と連れ立って施設をめざす。先にコンビニへ寄る。「いつもコーヒー牛乳を買うて行ったるんや」と話す祖父は、ジョージアのカフェオレをひと缶選んだ。私用には、コメダ珈琲のカフェオレである。家からはミカンやクッキーや、いろいろなおやつを持ってきた。軽トラックに乗って、再び出た。

施設はこの辺りで唯一の、駅の近くに建っている。敷地内には幼稚園もあり、交流デーが設けられている。歳をとると、社会で役に立つ経験が減る。誰からも必要とされない状況は、社会的な居場所を認められていない状況だ。だからときには、子どもの世話をして自尊心を満たすのだろう。(お年寄りが動物の世話をしたり、植物の世話をしたりするのも、「自分がいなければ死んでしまう」存在を欲しがるからだということだ。)

施設へ入ると、最初に気づくのは排泄物の匂いである。ここへ入るお年寄りは、自立した排泄が難しい人も少なくない。だからオムツをするのだが、やはりその匂いは漏れ出てしまう。そんな匂いが、施設全体から漂ってきて、正直なところあまり食欲は刺激されない。

一階には認知症や、脳卒中で麻痺を負った人などがいる。入るなり、知らないおばあさんに声をかけられる。何を言っているのかは聞き取れない。おそらくは認知症がずいぶん進んで、失外套症候群*1の直前まで来ているお年寄りの姿もめだつ。金正男が暗殺されたというニュースを、みな静かに見つめている。

祖母はそこにいなかった。どこにいるのかと探し回ると、なんだか施設の端っこのほうで、ぼんやり外を見つめていた。私はそれが祖母だとわからなかった。染めもパーマもしていない髪は、すっかり薄くて、ずいぶん歳をとったように思えた。まるい背中も、もはやメガネをしない目も、私にとってはこの上なくつらい。

私がそちらへ進み出ると、祖母は体をかたくして、「誰?」と聞いた。
認知症が進んでしまうと、人の姿がわからなくなる。祖母にとって、今の私はストレンジャーなのだ。それなのに馴れ馴れしく近づいてくるから、恐怖と不安を感じたのだろう。「おばあちゃん、会いにきたで。xxやで」遠くからそう言うと、とりあえずは友好的な人間だとわかったらしい。「ああ、そうなん」と破顔した。

祖母の手を引き、談話スペースへ移動する。祖母の居室は一階なのに、なぜか祖父は二階へ行く。二回は一人部屋がある。こちらはかなり空いていて、どうやら認知症にはなっていないらしいお年寄りが、コーヒーを飲みながら話をしている。挨拶をしてテーブルにつく。持ってきたお菓子を、いろいろと並べる。

買ってきたジュースを、祖父はマグカップに注いだ。いろいろな話をする。祖母はもう、正確な応答がむずかしい。
「ほんでなあ、明日は健康体操に行かなあかんのや。3時間から*2やで。しんどいわ」
「うふふ、なんやのこの人、なんや、なにやなあ」

祖母はもう、単語の意味がわからないのである。思い出せないのである。すべての事項を「あれ」とか「なに」とか言うのである。
それなのに、祖父は話しかけるのをやめない。整形外科での体操がめんどうなこと。木彫りの趣味について。私について。祖母はなんらかの反応をしながら、笑っている。

祖母が認知症になる前は、それはそれは気の強い人だった。祖父は酒癖が悪く、酒を入れるとくだを巻きだす。村の寄り合いに顔を出しても、およそ一人で歩けないほど飲む。
そんな祖父を引きずって、近所の人が家まで送って来るたびに、祖母は烈火のごとく怒った。「あた*3みっともない!」しかしもはや喧嘩もしない。祖母も祖父も笑っている。

祖母と祖父は、恋愛結婚だったらしい。同じ社内で祖母に惚れ込んだ祖父が、帰り道に待ち伏せをしてまでアタックしたのだそうだ。今なら立派なストーカーかもしれないが、ともかく祖母は「しゃあなしに」結婚した。祖父は毎日、この施設に通っている。毎日ひとりで、おやつの準備をする。

祖母の認知症は満腹中枢にも及んでいる。だからやたらと食べ物をほしがる。「あんたのそれ、なにやのん、ちょっと食べたいねんで」そう言って私のカフェオレに手を伸ばす。

「ええよ。ほんなら一口飲んでみて」そう言って差し出すが、祖母にはストローが分からない。
「この棒、どないすんのん、こないしたらええのんか」
「ちゃうで。それを口へ入れて、チューと吸うんや」
「こうやのん?うわ!なんやの!すごい、出てきたで、すごいいっぱいやで」
「ちょっと吸いすぎや。ゆっくり吸いいな」

持ってきたおやつはなくなって、私はゴミを片付けた。テーブルには一輪挿しが置いてある。祖母は短くなった腕で、しきりにそれに手を伸ばした。「それ、なんやのん、ほしねん、食べたいねん」「これはお花や。食べられへんで」「おはな?かなんかしらんけど、ほしねんで、食べたいねん」

祖父はほかの入居者との会話を始めた。その場にいた入居者は、パートナーと死別して一人になり、自分も病気で倒れたことで、施設へ入居「させられた」のだそうだ。

「うちの外孫は、埼玉で働いてますねや。警察官やねんで。立派なろ?」
「うちの子どもは、大阪のマンションへ住んでんねん。せやしそろそろ迎えに来てくれる、思うねんで」

私にはきっと、その孫も子どもも、確実に迎えに来ないことがわかってしまう。新幹線がびゅんびゅん走る大阪で、マンションを借りて暮らす子ども。そんな人が、電車もろくに来ないような田舎へ、帰って来るはずがないと思う。

きっとこの施設が「終の住処」になるだろうのに、その女性は、しきりに家へ帰りたいと言う。息子は帰って来ると言う。「こんなとこへおったら、日付もなんにも、忘れてしまうで!」嘆きながら笑うお年寄りに、からわらのお年寄りは静かに微笑む。

「さて、ほなぼちぼち去のか」祖父がそう言って、祖母を立たせて一階へ戻った。「この靴なあ、昨日も言うたんやけど、うちのと違うんや。ちょっと言うてから帰るわ」

声をかけられた若い職員は、いかにも忙しそうだった。「あのねえ、すんまへんけど、この靴なあ、うちのと違うねん。この靴は誰のなんやろか?」「ああ、部屋にあるのかもしれませんね、ちょっと取ってきます」職員はそう言って走り去る。そしてすぐに、グレーの上履きを持って祖母をつかまえ、椅子に座らせて靴を脱がせる。「痛いところないですか?」「ない」「また痛かったら言うてくださいね」

職員はそれぞれ、誰かしらと戦っていた。かたくなに道をあけず、車椅子で通路をふさぐお年寄りの説得。もはや反応を返さない人に、声をかけ続ける試み。食事の用意。仕出し屋とのやりとり。誰も彼もが忙しそうで、「これが介護の現場なのだ」と思わずにはいられない。

祖母を椅子に座らせたままで、祖父は「帰るわ」と声をかける。わかっているのかいないのか、祖母は優しく微笑んでいる。そして玄関を出たときに、祖母の背中がちらっと見えた。空間に向かってぼんやりしている。まるい背中が目に焼き付いた。ひとりぼっちのおばあちゃん。私を育てたおばあちゃん。その人を、こんなところへ置き去りにして、私は遠くへ住んでいる。

その事実が急に胸をとらえて、離れなくなった。たとえ5分でも10分でもいいから、昔のおばあちゃんに戻ってくれたら……。そうしたらたくさん話がしたい。修士論文を書き終えたこと。博士課程に進むこと。虫歯ができて困ったこと。私もまた、ひとりぼっちで寂しいこと。
きっとおばあちゃんは喜んでくれるだろう。遠い昔、通知表がよかったときに、「あんたはほんに、親もおらんのに、立派な子やね」と泣いてくれたおばあちゃんだから。私は生みの母に続けて、育ての母まで失ってしまう。私をはぐくむ母性がまた、遠くへ遠くへ行ってしまう。

「なんで二階で食べるのん」帰りの車で、私は祖父にそう聞いた。
「一階の人らはなあ、もう、あれなんや。おやつを食べとってもな、これはうちのやとか言うて、横から取らはったりすんねん」

そうなんや、と返したけれど、私の脳裏には必死に花瓶に手を伸ばす祖母の姿がちらついた。
実家の村では、年老いた人々がどんどん浄土へ旅立っている。減る一方の村のゆくえを思いながら、京都へもどる電車の駅で、軽トラを降りる。

*1:大脳の機能が失われて、自発的に動くことが難しくなる状態

*2:3時間はくだらない長さ

*3:なんとも

なぜ金にもならないブログを書くのか

雑記

ブログを書きながら時折、何故自分はこんなことをしているのだろうと考えることがある。

駆け出しといえど、金をもらって書く身である。
映画や書籍のレビューなど、依頼されて書いたのであれば、5000円ほどは請求するような文字数だ。もちろん趣味の書き物だから、売り物と違ってラフな書き口ではあるが、それだって努力がゼロかと言われればそうでもない。それなりに頭はひねるし、確実に時間と打鍵コストはかけている。

金がもらえるわけでもなく、日々の記録になるわけでもなく。貧乏人の私はなぜ、こんなことを続けているのか。

そんなことを考えていると、村上春樹の文章に行き当たった。内容は読者とのQ&Aで、読者は就活で「自分について書け」と言われ、途方に暮れているのだという。
村上春樹はその読者の悩みを拾い上げて、「カキフライについて書く」ことをすすめる。

(私が理解したところの)村上のロジックはこうである。

人は自分自身について書くことはできない。
しかし、目の前の事物について語ろうとすると、自然と自分自身の態度や内面を記述することにもなる。
だからカキフライについて書きなさい。それについて思ったことを書けば、あなた自身について書くことになるだろうから。

私たちが文章を書くとき、そこには無意識の間にきびしい選択が行われている。
試しに自分でもやってみればよい。街中でぱっと立ち止まって、その光景を記述しようと試みるのだ。そこで何を選び取るかによって、恐ろしいほど「自分」の姿は露わになる。

その人通りの多いことを書くか、それとも車のクラクションについて書くか。
もしくは建物の造形について書いたっていいだろう。
むろん、そういった人工物はすべて背景化してしまって、その空の美しいのを書いたっていい。

ほら、こんなにも選択肢はあふれている。人間は無意識のうちに、「何を見て」「何を見ないか」をきめている。

目の前に「見た」ものを文章化する行いは、その選択の結果を、分かりやすく目の前に提示する行為であるとも言えるだろう。
おまけにそこへ「感想」を添えてしまえば、もう「自分」がそこに見えてくる。「私はこれを見ていて、こう思いました」ということが、文章化の作用によって露わになるのである。

私が文章を書くというのも、結局のところ、「自分」が分からないからなのだろう。研究内容にしたってそう。カメラ趣味にしたってそう。すべて最後は「自分自身」につながっている。

ものを置いて砂をかければ、ものの形はシルエットとなって、紙上に浮かび上がる。
私にとって、「文章」とはその砂なのであり、今は結局、その砂を増やしてシルエットをより強固にしていく途中なのだ。
これはひどく独善的だから、売り物の文章では行えない。だからわざわざブログをやるのだ。腱鞘炎の手の甲にシップを貼りながら、それでもやらざるを得ないのである。

神を失った時代には、生きる意味が損なわれる。科学は「種」である人間については存在理由を思案してくれるが、「個」である私には興味がない。私が一匹、突然に野垂れ死んだところで、そこに救いはないだろう。

だから我々は、なんとか自分たちで「理由」をでっち上げねばならない。たとえばお金を持っているとか、たとえば異性をはべらしているとか。だいたいはそんなことで。そうでなければ死んでしまう。だって存在理由はないのだから。

そしてそういった通り一遍の「理由」に適合できなかった私は、「表現」という存在理由をでっち上げた。「私の書いたものが、いつか誰かの記憶に残って欲しいから」などとでっち上げた。そしてその営みの中で、なんとか自分を突き止めようともがいている。きっとそういうことなのだ。

ところで今日は実家に帰っている。入学の手続きや何やをするためである。もちろん施設の祖母も見舞う。知らぬ間に古びた光景が、私にも人生があったことを知らせる。

『桐島、部活やめるってよ』を見た

映画

とんでもない映画を見た。この日曜に見た『ラ・ラ・ランド』は残念ながら好みには合わなかったが、この映画だけはとんでもない。まるで自分が見た光景が、そっくりそのまま映像化されたような衝撃。桐島、部活やめるってよという映画である。

この作品は、日本アカデミー賞で最優秀作品賞を受賞し、今も口々に語られている。ところが私は未鑑賞だった。だって邦画が苦手なんだもん。

火薬がボカーン!女優がバイーン!殴って!蹴って!爆破!!!ってな感じのハリウッド映画は、脳のリソースを食わずに済む。だからこそ娯楽として楽しめるわけだが、邦画はそういう作品が少ない(ように思う)。

だからなんとなく、「また湿っぽい映画なんでしょ?根暗は私だけで充分だっての」という調子で見送っていた。まあ実際、湿っぽい映画である。ところがその湿っぽさが、絶妙にこう、すごいのだ。いやもう「見て」。それしかない。けれどもそれでは説明にならないから、頑張って説明をしてみよう。

あらすじ

この物語は、タイトルにもいる「桐島」が、部活をやめる噂から始まる。

登場人物のセリフを聞くと、どうやらこの桐島という男、バレー部のエースらしい。勉強もできるしカッコいいし、おまけに校内一の美女と付き合っている。いるよね、こういうパーフェクトヒューマン。当然のごとく、スクールカーストの上位にも君臨している。

……と、そんな桐島が突然、学校にも来ずメールも返さず、「部活をやめる」決断をしたのだから、学校内は大騒ぎ。これが話の中核だ。

さて、「中核」とは書いたものの、この映画では、中心人物たる「桐島」は一切姿を現さない。
鑑賞者は、周囲の人物が発するセリフを手掛かりに、上記のような情報を読み取るほかない。桐島がなぜ「部活をやめた」のかについても、登場人物たちの推測以上には、答えは明かされないままだ。

そう、この映画で描かれているのは、そういった「謎解き」部分ではない。
描写の対象となっているのは、「桐島」が部活をやめたことにより、影響を受ける「まわりの生徒たち」の姿なのである。

微妙な力関係が成り立つ、クラス内の生徒たち

女子

スクールカースト」という言葉はすっかり浸透したように思うが、学校という閉鎖空間では、常に微妙な力関係があり、ギリギリの均衡を保っている。
この映画では、その微妙な力関係が、見ていてつらいほどに描き出される。

たとえば、校内一の美女「梨紗」。「桐島」と付き合っていながら、部活をやめる決断については何も聞かされていない。巻いた髪やバッチリメイクは、いかにも「カースト上位」の雰囲気。ちょっと近寄りがたいような、常に気だるい雰囲気のある生徒だ。

そして、それにくっついて行動する「沙奈」。この子ももちろんカワイイのだが、どこか無理をした感じがある。「梨紗」や上位男子との交際をアイデンティティとし、ついていくのに必死といった様子だ。
そんなわけだから、下位の存在をバカにする。オタク系男子も、努力する生徒も、「沙奈」の前では「ダサい」。見ていて腹立つことこの上ないが、「梨紗」に嫌われまいと奔走する姿は、それはそれで痛ましい。

そこに加わるのが、バドミントン部の「実果」と「かすみ」。この4人で、上位女子グループは成り立っている。実はこの「かすみ」がなかなか曲者なのだが、そこを詳しく説明すると物語の楽しみを損なうのでやめておこう。

女子はほかにも、吹奏楽部の「沢島」がいる。沢島は目立たない存在なのだが、部活では部長を務め、「沙奈」の彼氏である「宏樹」が好きだ。しかしもちろん、そんな想いは報われない。

男子

さて、男子側にも、これらと同じような光景が広がっている。
唯一無二の存在である「桐島」に次ぎ、容姿端麗スポーツ万能な「宏樹」。どうやら野球部だったらしいのだが、練習はずっとサボり続けているようだ。

そして「桐島」「宏樹」と一緒になって、上位グループを構成する「竜汰」「友弘」。女子2位の「沙奈」がそうであるように、2番手・3番手はやはり痛ましい。分かったような下ネタを言って、必死に1位の機嫌をとる。ときにはその下ネタがウケず、なんとも言えない空気が流れる。

そして何より、映画の主人公は「前田」だ。映画研究部で、どう転んでもオタクである。上位グループの「かすみ」とはかつて親しかったが、今や会話をすることもできない。たまたま「かすみ」とイオンで会った「前田」の姿には、落涙を禁じ得ないだろう。

残酷なまでにリアルな生徒たちの姿

ともかくこの映画はリアルだ。

見ていて何度も、「あっ、この光景、見たことある」と思ってしまう。たとえば部活に関して言えば、「実果」はバドミントンが好きなのに、「沙奈」にダサいと思われるので「(目的は)内申書だし」などと言ってしまう。

ところがひとたび「沙奈」と別れると、今度は同じくバド部の「かすみ」に気を遣い、「本当はバドミントン好きだから」と弁明する。「あの人たちにマジメな話してもね」というセリフもまた、グループ内部にくすぶる内紛の気配を感じさせる。

痛々しいではないか。こちらの機嫌にも気をつけつつ、こちらの顔色も伺わなければならない。大人であれば、よほど気に入らない環境ならば「出ていけばいいや」と思えるだろう。しかし子供である高校生たちには、それができないのである。

だから彼らはかわいそうなほど、周囲の機嫌を伺ってしまう。ときには誰かを笑うことで、ときには自分を貶めることで。そうやって、力の均衡を保っている。そういったシーンが、何度も、細かく描き出されるのだ。

たとえば「前田」の持っていた雑誌が、バレー部の男子にぶつかられて弾き飛ばされるシーン。「あ、わり」とは言われるが、そこには気遣いは感じられない。「前田」は怒ってもいいはずなのに、それはできなくて「うん……」とうなずいて雑誌の汚れをぬぐう。

たとえば「沙奈」に反抗したあと、その場を離れる「実果」のシーン。なんならその場で思い切り、言い争ってしまえばいいのに、それは絶対に起こらない。反抗された「沙奈」にしても、その場では衝突を避けておいて、「梨紗」相手に愚痴をこぼすのみ。おまけにその内容は、「あいつ、ムカつく」ではなくて「クラス替わってから、なんか変わったよね」である。

誰もかれもが、本当の気持ちは言わないで、絶対に衝突をしないように、直前のところで踏みとどまっている。

そういったシーンを見ていると、自分の記憶もよみがえって、だんだんつらくなってくるのだ。ホコリがきらきら反射しながら、机に差し込む太陽の光。遠くで聞こえる野球部の練習。進路。塾。恋愛。家庭。
自分が18だったころ、確かに感じた不安や迷いが、胸の奥からえぐり出されて吐きそうになるのである。

「いち抜け」した桐島の存在

さて、こうして薄氷の上に立つ生徒たちの中で、ひとりだけ「いち抜け」した生徒がいる。それは誰か?

答えはもちろん「桐島」である。生徒たちはみな、不安や関係性に押しつぶされそうになりながら日常を送っている。周りに合わせ、絶対にそこから出ないように、本音を押し殺して生きている。

ところが「桐島」ときたら、突然、部活を辞めてしまうのである。大事な大会の前なのに。エースなのに。誰にも相談なく、学校にも来なくなってしまう。

それは激しく調和を乱した。「ずるいじゃないか」という気持ちが、そこらじゅうから聞こえる気がする。みんな従っているのに。みんな我慢しているのに。「桐島」だけは同調圧力から逃れ、自分がやりたいようにしたのだ。しかもその理由を、誰にも明かさないまま。

映画の中では、桐島の退部について、登場人物がさまざまに推理する。
「あいつは完璧型だから、あんまり人間関係よくなかったらしいよ」。いかにもありそうな理由ではないか。しかしそれは単なる噂で、説明にならないと感じたのだろう。「もしかして、桐島の家に借金があるとか?」などと付け足してみる。ともかく理由が欲しいのだ。このギリギリの均衡を、つつがなく続けるための理由が。

しかし理由は明かされない。「桐島」は電話にも出ないし、メールも返さない。だからみんな不安が募る。

そして鑑賞者もしんどくなったあたりで、エンディングは始まる。その最初の歌詞はこうである。「自分だけが置いてけぼりを喰らっているような気がする」……もう、これは結論だろう。

なぜだか泣きたくなる傑作

この映画には、老人も犬も登場しない。奇跡もないし、「ありのままでいい」と肯定もされない。ただ淡々と、光景を見せられるだけの映画。それなのに、どうしてだかすごく泣きたくなるのだ。

きっとそれは、大人になるときどこかへ押し込んだ「自分は何者か」という問いを、もう一度眼前に突きつけられるからだろう。私はどんな人間なのか。私はこれからどうすればいいのか……。そういった、「考えることを諦めた問い」が、ホコリくさい教室の記憶とともに目の前に提示されるのである。この主題は、エンドロールで「宏樹」の肩書きが「(   )」であることからもわかるだろう。毎日に慣れた大人にこそ、ぜひ見て欲しい傑作である。

リラックスアイテムや運動について

出版小ネタ

ここのところ、急激に仕事が増えた。期末だからか知らないが、目の回るような忙しさである。新しい研究のネタがあるのに、思うように時間が取れない。しかしまあ、食うに困るより100倍マシなのでよしとする。新しいキーボードが欲しい。

さて、そんなわけで今日は、パソコン仕事が忙しいときの疲労軽減アイテムなどをまとめてみる。いや本当、最近はいいアイテムが色々あるんですよ。アフィリエイトだと思われたくないから、なるべく公式ページを貼るようにする。アフィ嫌いの方々も、安心してリンクを踏んでほしい。

桐灰「あずきのチカラ」

www.kiribai.co.jp

ダントツの1位。最THE高。

このアイテムは、要するに「蒸気でアイマスク」みたいな商品である。ただし「蒸気で〜」と違うのは、何度だって再利用が可能だということだ。*1

商品の作りはシンプル。布でできた袋の中に、あずきがたくさん入っている。これを電子レンジであたためると、あずきから出るのか、ほどよい蒸気が疲れを癒す。以前はアイマスクしかなかった気がするのだが、いつのまにか肩用も出ていたようだ。

肩こりや目のこりの軽減は、蒸しタオルで行う人も多い。しかし蒸しタオルはすぐに冷める上、使い終わったあとのタオルをどうするの?というのが結構面倒。油断していると、ヤケドもする。

しかし、そのあたりのわずらわしさが「あずきのチカラ」には存在しない。ダントツの1位。最THE高。

その上、お値段もけっこうリーズナブルなのだ。アイマスクなら800円、肩用なら1400円ほどである。ほら、欲しくなったでしょう?買いましょう。ドラッグストアで売っている。

白元「レンジでゆたぽん」

www.hakugen-earth.co.jp

基本的に、体は冷えるといいことがない。

私はとにかく寒がりで、ちょっと冷やすとすぐに腹が痛くなる。ストレスにも弱く、新しい環境へ行く前日には必ず食欲がなくなって吐く。胃が痙攣し始めて、死にかけの金魚みたいな顔で転がっている。

そんなとき、何よりも早く、荒れ狂う胃を鎮める方法が「あたためる」なのだ。ちょっと熱いかな、というくらいの温度でじっくり下腹をあたためる。するとなぜだか不思議なことに、スッと安眠できてしまう。

この「レンジでゆたぽん」はジェルでできた湯たんぽである。締め切りがいろいろ迫ってくると、眠って回復しようとしても、気分が高ぶって寝られないときが多くなる。そんなときには体をあたためるのがよい。ぜひ試してみてほしい。

ヨガ

最後はアイテムではなく、ストレッチ方法で締めよう。
ちなみに、「ヨガ?はいはい、『ああいう』やつね」と思った人は悔い改めてほしい。ヨガはすごい。何がすごいって、筋肉への負荷がすごい。

スピリチュアルなものに関心はないが、真面目にやると、ヨガはかなり筋肉に来る。一度、講座を受けたときは、次の日に全身が筋肉痛になったくらいだ。だってわけのわからんポーズで「はいそこでキープ」とか言われるんだもん。その姿勢で太陽に感謝とかさせられるんだもん。そんな余裕ねえよ。

太陽への感謝はさておいて、ヨガはかなりいいスポーツだ。やっている間は無になれるし、布団の上でできるので気楽。そしてありがたいことに、Youtubeに無数に動画が転がっている。たとえばこんなん。

youtu.be

不眠に悩んでいたころは、寝る前に2時間くらいヨガをやりまくっていた。それを続けていった結果、最終的に、ヨガミュージックを聴くだけで30秒で眠れるようになった。すごいな私。パブロフの犬かよ。皆さんもぜひ、ヨガの犬になってください。

*1:「何度だって」とは書いたけれど、公式ページでは一応、250回までとなっている。