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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

さばとら猫とひきがえるの事

雑記

実家はとても田舎だったので、どこからともなく猫が湧いてきた。そういった猫は、ときには段ボールに詰め込まれて、ときには裏の林の中で、私たち住民に発見された。雨の夜、必死に声をあげる猫を無視することはできなくて、懐中電灯とにぼしを持って「チチチ」と言いながら、探し回ったことが何度もある。

さて、さばとら猫の「リン」もそんな経緯でやってきた子猫だった。どこからともなく湧いてきて、うちの納屋に住み着いたのである。当時うちにはすでに2匹の猫がいて、祖父は猫が嫌いだったから、新たな子猫は歓迎されなかった。ところが弟はひそかに子猫を奥へ隠し、先住猫のエサを盗んで、この猫のことを養育していたのである。

それが判明したときには、祖父の手によって子猫は追い出されそうになった。それをなんとか、私と弟がお年玉を出し合って、去勢費用を出すということで説得したのである。折れた祖父が首をタテにふったので、私は猫に謝りながら、近くの動物病院へ連れて行った。なんだか非道なことをしている気がして、心が重かったのを覚えている。

ところが驚くことに、猫はすでに去勢済みのオスだった。去勢までしておいて、裏の林へ放ったのか、それとも迷子になったのか。それは今でも分からないが、探しているふうな貼り紙はなかった。それでそのままうちの猫にした。あわてて名前も変更した。「エカチェリーナ」という名前にしていたのを、「凛太郎」と改めたのである。

凛太郎は鍵しっぽで、高い声をしていた。高齢の三毛猫にじゃれつきに行っては、しょっちゅう威嚇をされていた。やせっぽちで、寝相が悪く、椅子で寝ては尻から落ち、「わけがわからん」という顔で呆けていた。あまり抱かせてくれはしなかったが、祖母のヒザは好きだった。ストーブの前で撫でられながら、高い声で「ニャアン」と鳴いていた。

祖母は猫を撫でながら、しきりに話しかけていた。
「生きてこの世に生まれたからには、幸せにならな、あかんわな」
撫でられるがままの猫は、満足そうにしている。

祖母は私にも話しかけた。
「あんた、猫が好きやねんな。生き物には親切にしとかなあかんで。あんたがこないして、猫を大事にしとったらな、あんたが死んだとき、ちゃんと教えてくれるんや。『こっちですよ』言うて、あんたをええとこに連れてってくれるんやで」

祖母の言葉に、若い私はふうん、と返したけれど、今から思えば、なんともあたたかい死生観ではないか。

「生きて生まれたからには」という言葉は、猫以外にも、いろいろなところで登場した。
たとえばそれはひきがえる。ホテイアオイの鉢の中に、ある日一匹のひきがえるが住み着いたのである。

祖母は初め、「なんやの、気色悪い」と悲鳴をあげていたものの、出掛けたかえるが律儀に戻るのを見かけるにつれ、「あんた、こんなん食べるか?」と言って、コイの餌を分け与えるようになっていった。最終的には、「こんなんでもな、毎日一緒におったら、可愛いもんやで」と言っていたのだから、心境の変化には驚かされた。

祖母のもつ生き物へのまなざしは、私の中にもしっかりと息づいている。「生きて生まれたからには、幸せにならなあかん」。不運なことに、交通事故で命を落としたリンは、果たして幸せだったのだろうか。きっとその答えは、私が死んだあとにこそ分かるのだろう。これまで私が関わってきたいのちと、「あの世」でまた巡り合えることを、今はほのかに期待している。

方言調査に見るアイデンティティ

雑記

一般に言語というものは、その人のアイデンティティの一角を担うものだといっていい。今でこそ「標準語」が一般的となり、人の往来も増えたことで、「共通語」としての東京方言が台頭してはいるが、いくら身なりを整えたところで「ぼろ」は出る。思わぬところで「めばちこ」などと言ってしまい、ああやはり私は近畿出身なのだなあと感じることになるのである。

以前私は、アイデンティティというものは、なんとなく、年を食った人ほど強いものだと感じていた。無意識の間に「若者 = 無垢」という正当化が根付いていたのかは知らないが、なんとなくそういう「ネチョッ」としたものは「年寄りのもの」という偏見があったのだろう。だから勝手に、方言への思い入れも、お年寄りのほうがきっと強いはずだなどと考えていたのである。

ところがそれが覆ったのは二十歳の頃だ。私は方言学の授業を受けていて、「自分のことば」についてのレポートを作成することになった。

これは調査の準備体操みたいなもので、要するに、周りの人を三人選んで「自分のことば」に対するイメージを聞いていくレポートである。
調査方式は質問紙。1〜5までのグレードが設定してあり、「やさしい」「きれい」「親しみがある」などといった項目について、同意するかしないかを答えてもらう。

私の場合、近くに格好の協力者がいた。それは祖父・父・弟という、三世代の男性である。生まれたときからその土地に住み続けている人のことを「生え抜きの話者」と呼ぶのだが、生え抜きの話者が三世代、しかも男性で揃っているのだからちょうどいい。私は三人に依頼し、順番に質問を投げていった。

冒頭で触れたとおり、この時点では、私には「思い入れを持つのは年寄りだろう」という思い込みがあった。

祖父は生まれてこのかた、隣の町にある工場へしか通勤したことがない。
父親は、大学こそ隣県の大学に通っていたものの、職場は家から徒歩数分である。
いちばん活動範囲が広いのはやはり弟で、自分のバイクで遠くまで遊びにいく。友人にしても、遠い県の子がたくさんいる。そんな青春を送っているのだから、きっとこの町や方言には大した思い入れがないだろう。そう思っていたのである。

ところが結果は、私の予想を大きく上回るものとなった。

「ほんなら教えてね。おじいちゃんは、自分のことばを『やさしい』と思いますか」
「やさしい……うーん……いやあ……?分からん」
「分からんか。ほんなら次。『きれい』と思いますか」
「きれい……?いや、あんまりきれいことはないんちゃうか……分からん」

次々と繰り出される質問に、祖父はだいたい「分からん」と返した。
「きれい」「汚い」という尺度には「あんまりきれいことないんちゃうか」と答えたが、これは、祖父の中では「きれいな言葉」が「NHKみたいな言葉」と同義だからである。

さらに「親しみを感じるか」などについては、「そんなもん、考えたことあらへん」と答えた。知っている言葉が、いささか権威的な「NHKの言葉」しかないから、そもそも比較して考える機会がないのである。

そうなると、誰が一番強い反応を示すか。そう、その答えこそは「弟」なのである。

「自分の言葉は『きれい』ですか」
「ええ?大阪弁なんかきれいちゃうやろ!」
「自分の言葉に『親しみを感じ』ますか」
「まあ、そら自分の言葉やから好きやな!」

弟は、自分の言葉を「大阪弁」と称した。ちなみに、祖父は自分の言葉について「ここらへんの言葉」という呼称を使う。

全国各地の知り合いがいる弟には、すでに「日本」という抽象的なマップが設定されているのである。そしてその中において、自分の出身地を規定することが行われるのだ。
一方で祖父は、そもそも遠くへ行くことがないから、「ここらへん」「遠いとこ」という区別しかもたない。方言に関しても、「ここらへん」「NHK」という区分しかもたないのだと考えられる。*1

この事例から分かることは、私たちは他者に会ってこそ、自分のアイデンティティを確かめたくなるのだろうということだ。

自分と違う他者がいるから、自分自身の姿が見える。それは一方で楽しくもあり、怖くもある体験だ。しかしともかく、出会いの数が増えれば増えるほど、自分自身に対する疑問も深くなる。あいつはああいうやつだ。では私は?そういう問いの機会が、増えていくのだろう。

今、何かと「アイデンティティ」という言葉がホットなのも、きっと出会いの数が増えたからなのだろう。インターネットを介してどこまでも遠くとつながれる。その環境は、人を豊かにもさせ、同時に不安にもさせる。だから自分探しは終わらないし、なにか奇抜なことをして、絶対にゆるがぬ「自分」を作り上げようとするのだろうか。
そんなことを考えている。

*1:なお、中間の世代である父親はやはり、中間的な答えを示した。結婚相手である母親が、四国の高知出身だったことも影響しているのかもしれない。

志賀直哉『城の崎にて』に流れる死生観

雑記

老いと孤独と死のことばかり考えている。私が死を想うとき、いつも心に浮かぶのが、志賀直哉『城の崎にて』である。高校を出るまでに教科書で読んだ作品の中で、およそ『城の崎にて』ほど心に残ったものはなかったろう。それくらい、私にとっては愛おしく、美しく感じた随筆だった。

もっとも、明るい話ではない。電車に跳ねられて大怪我を負った筆者が、湯治のために城崎を訪れ、めぐり遭うものにムニャムニャと思索をめぐらしながら、ひたすら死について考えるような随筆だ。ところがその描写の細かさには、ちょっと書けないような繊細さが備わっている。構成もはっきりしていて、あれを教材に選ぶのは、なかなか慧眼だと思わずにはいられない。

死んでしまったはち、なぶり殺しにされるねずみ、筆者の殺したいもり。
そんな生き物たちの死を目の当たりにして、志賀はどのように死を想ったのか。今日はそんなことを考えてみたい。

導入部

山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした、其後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。(中略)兎に角要心は肝心だからといわれて、それで来た。三週間以上――我慢出来たら五週間位居たいものだと考えて来た。

『城の崎にて』の導入はひどくあっさりしている。「それで来た。」という書き口など、いかにも不承不承というか、どうでも良いのだという感が伝わってくる。

話し相手のいない志賀は、「読むか書くか、ぼんやりと部屋の前に椅子に腰かけて山だの往来だのを見ているか、それでなければ散歩で」過ごすのだが、散歩をしながらだんだんと、死への想像を膨らませていく。

自分はよく怪我の事を考えた。一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ている所だったなど思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷も其儘で。祖父や母の死骸が傍にある。(中略)それは淋しいが、それ程に自分を恐怖させない考だった。何時かはそうなる。それが何時か?――今迄はそんな事を思って、その「何時か」を知らず知らず遠い先の事にしていた。

導入部での、志賀のもつ「死」のイメージはこんな調子だ。人はいつかは死ぬのだろうが、それは「知らず知らず遠い先のことにしていた」。

個人的には、この「していた」という表現が良い。よく分からないけれど、いつかは自分にも訪れるもので、それは少し怖いが、まぁずっと先のことだろう……という現実逃避の気持ちが、この「していた」に集約されている。自分で文章を書く人ならわかると思うが、こういったモヤモヤした考えは、とても実体が捉えにくく、したがって書き表しにくいものである。モヤモヤしたものをモヤモヤしたままで、しかし何なく文章にしてしまう。これには「さすがは志賀直哉」と思わされる。

さて、志賀は偶然に死を逃れた自分について、ロード・クライヴを引き合いに出し、何らかの運命が、自分を生かした可能性を考えてみたりする。
ところがそんなポジティブ思考は志賀には合わなかったらしく、

然し妙に自分の心は静まって了った。自分の心には、何かしら死に対する親しみが起こっていた。

と言う。志賀がここで抱いた「死に対する親しみ」は、これから先のキーとなっていく。

はちの死

志賀の滞在する部屋は二階で、窓の近くにははちの巣があったらしい。志賀はその忙しない動きを仔細に観察することで、束の間の退屈を慰める。

ところがある日、志賀は一匹のはちが死んでいるのを見つける。

或朝の事、自分は一疋蜂が玄関の屋根で死んで居るのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。

さらに志賀は、その様子を生きたはちと対比してみせる。

他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその傍を這いまわるが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立働いている蜂は如何にも生きている物という感じを与えた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見るたびに一つ所に全く動かずに俯向きに転がっているのを見ると、それが又如何にも死んだものという感じを与えるのだ。

もはや動かぬ死んだはちと、あいも変わらず忙しない他のはち。なんとも寂しい対比ではないか。
しかし人間に置き換えても、この対比はそのまま保たれるような気がする。仮に私が死んだとしても、満員電車はあいも変わらず満員だろうし、四条通は混雑しているのだろうな……と、そんなことを考えてしまう。これは私の推測だが、おそらく志賀も、そんなことを考えたのではないか。

そして志賀は、はちの死を「静かなもの」と感じ、「自分はその静かさに親しみを感じた」と記述する。

ねずみの死

はちの死と出会ってからしばらくして、志賀はひとつの光景を見かける。それは、川べりで何やら騒ぐ人々の姿であった。何を騒いでいるのかといえば、ねずみを川の中へ落として、なぶって遊んでいるのである。

鼠は一生懸命に泳いで逃げようとする。鼠には首の所に7寸ばかりの魚串が刺し貫してあった。頭の上に三寸程、咽喉の下に三寸程それが出ている。鼠は石垣へ這上がろうとする。子供が二三人、四十位の車夫が一人、それへ石を投げる。却々当らない。(中略)鼠は石垣の間に漸く前足をかけた。然し這入ろうとすると魚串が直ぐにつかえた。そして又水へ落ちる。鼠はどうかして助かろうとしている。顔の表情は人間にわからなかったが動作の表情に、それが一生懸命である事がよくわかった。

残酷な話だ。本筋とは関係がないが、こんなことをするやつは地獄で永遠に苦しんでほしい。
とまぁ、この嫌悪感は無理やり脇へ置いておくとして、志賀はこのねずみを見て、ひとつの恐怖心を抱く。

自分は鼠の最期を見る気がしなかった。鼠が殺されまいと、死ぬに極まった運命を担いながら、全力を尽して逃げ廻っている様子が妙に頭についた。自分は淋しい嫌な気持になった。あれが本統なのだと思った。自分が希っている静かさの前に、ああいう苦しみのある事は恐ろしい事だ。死後の静寂に親しみを持つにしろ、死に到達するまでのああいう動騒は恐ろしいと思った。

ここで注目すべきなのは、「あれが本統なのだと思った。」という部分だろう。

思い出していただきたいのは、導入部における死へのイメージだ。志賀が当初、抱いていたそれは、いささか幼稚でファンタジックなイメージであった。
「よく分からないけれど、墓で家族と眠るような感じかな」とでもまとめられるイメージで、それゆえに志賀はそれほど恐怖せず、むしろ「親しみ」を覚えたのである。

そのイメージが劇的に変化したのが、ここで出会うねずみの「動騒」だ。喉元へ串を刺されて水へ放り込まれ、それでもなお、投げ込まれる石から必死に逃れようとするねずみ。それはまさに、「死ぬに極まった運命」であろう。そんな運命を前にして、なお必死にもがいて死を免れようとする、その「動騒」に、志賀は恐怖を覚えるのである。

今自分にあの鼠のような事が起こったら自分はどうするだろう。自分は矢張り鼠と同じような努力をしはしまいか。

実際に志賀は、自分が怪我を負ったときには、やはり慌てふためいたらしい。病院を指定し、怪我の具合をたずね、そして今まさに湯治にも来ている。やはりねずみの「動騒」は、志賀にもあったのだ。

志賀は、先ほどまでの「静かさ」とは対照をなす、この「動騒」を目の当たりにして、

で、又それが今来たらどうかと思って見て、猶且、余り変わらない自分であろうと思うと「あるがまま」で、気分で希う所が、そう実際に直ぐは影響はしないものに相違ない、しかも両方が本統で、影響した場合は、それでよく、しない場合でも、それでいいのだと思った。それは仕方のない事だ。

と一気に書き連ねる。句点による息継ぎもせず、不完全なままで書かれたこの文からは、志賀の恐怖や焦燥、そしてそれをなだめようとする理性が、ひしひしと伝わってくるかのようである。

いもりの死

さて、また別の機会に志賀は、一匹のいもりを発見する。このあたりの描写もいい。そろそろ引き返そうとしながらも、次の角まで、次の角までと歩いてしまう。ねずみの死が、きっと志賀をして思索に駆り立てたのだろう。

志賀はイモリやヤモリやについて何やらムニャムニャ述べたあとで、ひとつのいたずら心を起こす。

自分はいもりを驚かして水へ入れようと思った。不器用にからだを振りながら歩く形が想われた。自分は踞んだまま、傍の小鞠程の石を取上げ、それを投げてやった。

志賀に悪気のなかったことは、「投げてやった」という表現からも明らかだろう。この間、なぶり殺しにされるねずみを目撃したばかりだというのに、自分も同じようなことをするのだから仕方がない。これもまた、人間の身勝手を感じさせる。
それはさておき、石は運悪くいもりを直撃してしまう。

最初石が当たったとは思わなかった。いもりの反らした尾が自然に静かに下りてきた。すると肘を張ったようにして傾斜に堪えて、前へついていた両の前足の指が内へまくれ込むと、いもりは力なく前へのめってしまった。尾は全く石についた。もう動かない。いもりは死んでしまった。

志賀はこの光景を目の当たりにして、「とんだことをした」と思い、その場にしゃがみこんでしまう。そしていもりの死を、「いもりにとっては全く不意な死であった」とし、

いもりと自分だけになったような心持ちがしていもりの身に自分がなってその心持ちを感じた。かわいそうに想うと同時に、生き物の淋しさをいっしょに感じた。

と述べる。自分が殺しておいて、とは思うが、ここで志賀は、ねずみの示した「動騒」に加え、いもりの死における「偶然性」にも気付くのである。それは、「自分は偶然に死ななかった。いもりは偶然に死んだ。」という記述からも明らかだろう。

結末部

いもりの死に出会ったあと、志賀は宿へ引き返しながら、それぞれの死体が今はどうなっているかについて思いを巡らせる。はちはもう流されて、土に埋まっているだろうとか、そういった想像である。

一方で自身に関しては、「そして死ななかった自分は今こうして歩いている。」とまとめ、

自分はそれに対し、感謝しなければすまぬような気もした。しかし実際喜びの感じは湧き上がってはこなかった。生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした。

と述べる。

こうして内容を追っていくと、志賀のもつ死へのイメージが、次々と変化していくのが見てとれるだろう。

当初、死へのイメージは「静かさ」であり、志賀はそれに「親しみ」を感じていた。
ところが死の前には、恐ろしい「動騒」があることもわかった。それに動揺する志賀は、最終的に死の「偶然性」に気付き、「生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなかった」と結論づける。

この「両極」がよくわからない。生きていれば必ず死ぬのだし、それは偶然に訪れるのだから、考えても仕方がないということか。
もしくは、死があるからこそ生があるという意味なのか。死の可能性を内包してこそ、生が存在するということなのか。

志賀の至った結論は、私の頭にはよくわからない。
しかし、わからないなりにも、メルヘンチックな死への憧憬にとどまらない、志賀の思索過程が見えるように思えて、魅力的なのである。

志賀は『城の崎にて』を、こう締めくくる。

三週間いて、自分はここを去った。それから、もう三年以上になる。自分は脊椎カリエスになるだけは助かった。

「助かった」という淡々とした報告からは、志賀の獲得した「死への受容」が読み取れる。そんな風に思ってしまうのは、私だけだろうか。

人は何があるかわからない。死はなんとなく、恐ろしいものだし、避けたいものだという感じがある。その一方で気分の沈むときにはついつい自殺を考えることがある。

そんな甘ったるい死への憧れを、志賀は見事に描いてみせる。しかもそれには飽き足らず、死の前に訪れる動騒や無常観さえも突きつけてくる。この深い思索は、私にとってひとつの道しるべとなり、死を想ううえでの重大なヒントになるような気がするのだ。

志賀の簡潔な筆致は、小説を書く上での理想という声もある。そんな名文で、死への想念を読む機会に恵まれたことは、たいへんな幸運に思われる。

認知症になった祖母

雑記

久しぶりにわんわん泣いた。祖母が介護施設に入居したからだ。何度か書いているように、祖母といっても実質の親、「母親」として私をここまで育ててきた人である。
そんな人が認知症になり、もはや自分のこともわからず介護施設にいるというのだからこたえた。「老い」や「死」についての考えに、ここ数日はずっと取り憑かれている。

祖母が認知症になり始めたのは私が高校生1年生のころ、夏のことである。それまでも「なんや最近、よう忘れるわ〜」なんて冗談めかして言っていたこともあるけれど、そもそもが60を過ぎての「子育て」である。学校行事も準備物も、いちいち細かく覚えていられないのが普通だろうと、家族の誰もがそう思っていた。

それでも不安になったのか、一度は町医者にかかったこともある。何十年と田舎で医院を営んでいる、典型的な町医者だ。その医師はいろいろと診察をして、「お年です。」と結論を下した。
「お年です、やて。ははは、わろてまうわ。そらぁ、年やわな!」と笑う祖母は、なんだかとてもほっとしていたように見えて、やはり不安はあったのだろうなと今では思う。

しかしそれは単なる加齢ではなかった。徐々に祖母の認知症は進行していって、同じことを何度も尋ねるようになった。私はともかく、祖父はそれに耐えられなくて、「さっきも言うたやないか!」と声を荒らげることが増えていった。そうはいっても気の強い祖母である。「なんべんも言うた、言われたって、覚えられるかいな!」ケンカである。

肉親の私が言うのもなんだが、祖母はとても頭の回転が速く、運動も得意で、とかく「できる人」だったのだ。そんな祖母の衰えを、周りはすぐに受け入れることができなかった。

私は何度も「予定は言うだけやなくて、カレンダーに書いとかなあかんで」と祖父に進言したのだが、そのアドバイスは聞き入れられることはなかった。
字が汚いからとか、面倒くさいからとかなんとか言っていたけれど、きっとその心の底には、祖母の認知症を認めたくない気持ちがあっただろう。だってしばらくして、隠しようもないほどに進行したあとは、きちんと書くようになったのだから。

そして高校生1年生の夏。「宝探し」は始まった。「財布がない」そう言うのである。
祖父と父親は仕事、弟はまだ幼いので、高校生の私が「ゲーム」に付き合った。「あれへんなあ……」

そしてこの「宝探し」、徐々に難易度が上がるのである。はじめは台所の棚に隠してあったものが、布団の隙間になったり、物置の奥になったり。何時間もかけて探しながら、祖母はだんだん泣きそうになっていった。

「こんなんなってしもて、情けない。はよう死にたい」祖母のまるい背中を撫でながら、自分の親の「死にたい」という言葉を、聞いていなければならなかった私。そんな私自身は、誰からも撫でられることなく、高校1年生の夏休みは過ぎ去っていった。

そうしている間に、祖母はだんだん、人が信じられなくなっていったらしい。財布を「なくした」ではなく、財布を「盗られた」と言うようになった。一緒に捜索していた私はさておき、疑惑の目は祖父、父、弟、そして遠くに住む叔父夫婦にまで及んだ。
祖母は財布を3つか4つに分割し、それぞれを別々に隠すことで財産を護ろうとした。「もう、あんただけが頼りやで。あんた以外はもう、信用ならん」と言われるけれど、そんな言葉はひとつも嬉しくなかった。

私についてはこの時期、勉強が滞って、塾のテストで落第し、みんなの前で叱責されたのはこたえた。塾は結局やめたけれど、祖母の怒りは私に向くこともあったから、家ではなかなか勉強ができなかった。同級生はいいよなあ。お弁当まで作ってもらえて。そんな気持ちはあったけれど、言い出せなくて、お昼にはずっとメロンパンを買って食べていた。今でもメロンパンを食べると、手作りのお弁当がうらやましかった、高校の昼休みを思い出す。

さて、ここからは正直、つらくてあんまり記憶がない。高校3年生には父親も再婚して、私と弟の処遇でもめたことを覚えている。祖父母と暮らすか、両親と暮らすか。隣り合った家に住んでいるのだから、どちらでも変わらないような気がして、一応は両親と住むことになった。センター試験の一週間前である。

しきりに私を心配して、祖父母が様子を見に来たが、生活に介入されるのがいやだったのだろう、母親はそれを追い出していた。まあ田舎特有の、チャイムも鳴らさない突然の訪問が不愉快でないかと言われれば、あながちに母親を責めることもできない。ともかくそうやって、私と祖父母の距離は開いていった。

罪悪感を覚えながらも、新しい母親の機嫌を損ねることもできず、だんだんと私は家に帰らなくなった。深夜までアルバイトをして、カフェや大学で時間を過ごして。時折祖母をたずねるたびに、その病状が進行していることを突きつけられて。そうやって、大学4年間は過ぎ去ってしまった。

認知症の後期は悲惨である。物の名前と用途が、だんだんと抜け落ちていくのである。
祖母はハサミにビニール袋をぐるぐる巻いて、「レインコート」と言って私に手渡した。「なんでこれ、ヒモで巻いてあんのん?」「ええ?……便利やろ?」

「レインコート」はまだいいとして、火事になりかけたこともある。
ホットプレートの使い方がわからず、そのままコンロにかけてしまったのだ。たまたま祖父が帰ってきたからいいものの、そのときには、1mほどの火柱が上がっていたという。そんな状況を、祖母はどうすることもできず、ぼんやり見つめていたそうだ。このあたりから、家族もさすがに「施設」という言葉を検討するようになってきた。

加えて徘徊も始まった。気付けばどこかへ行ってしまうのである。あるときは何キロも離れた山中で、たまたま通りがかった村の人に見つけてもらったらしい。互いが顔見知りのムラ社会であるからいいようなものの、これが都会だったらと思うと、きっと帰ってはこなかっただろう。
行き先をたずねると、祖母はそっと「家へ帰る」と言ったらしい。遠く離れた祖母の生家、家族はみな、死んでしまった生家へである。

この正月に帰ったときには、祖母はぼんやりとした笑顔で、「ここは誰の家ですのん?」とつぶやいた。「おばあちゃんの家やで」「あら、あなたの、おばあさんのおうちやのん?立派やねえ……」

もう祖母は、自分の孫すらもわからないのである。「夫の妻」としての祖母、「息子の母親」としての祖母。そして、「孫の母親」としての祖母。
その全てのアイデンティティは、祖母の中から消えてしまったのだ。祖母はひとりの「xx子さん」となって、大きな農家の「おとんぼ」であり、兄や姉らに守られていた時代に帰ってしまったのである。

これは今の家族にとっては、死別に等しい悲しみではないか。あたたかい肉体だけは目の前にあるけれども、その記憶は永遠に、失われてしまったのだから。もう祖母は、私の進路についてたずねてくれない。ボーイフレンドの写真を要求しない。私の服にいちゃもんもつけない。一緒にイオンにも行けないし、縄跳びだってしないのだ。

もはやパーマもかけず、眼鏡もかけず、長らく化粧もしなくなった祖母を前に、私は後悔にさいなまれている。

あのとき、もっと早く大きな病院へ連れて行ったら。あのとき、両親に引き取られず、祖父母と暮らす道を選んでいたら。あのとき、早く実家へ帰っていたら……。

過ぎた10年の間には、あらゆる「もし」が転がっていて、そのどれもが今よりましな未来をくれただろうという感じがする。
考えても意味のないことと分かっていても、同じくらいの年の人々が元気そうなのを見てみると、「どうして私のおばあちゃんが……」と思わずにはいられないのである。私の生母が死んだのがいけないのか。親が再婚したのがいけないのか。私が院へ進んで、家を出て行ったからいけないのか。

誰が悪い。誰を責めればいい。「病気」ばかりは、責任をなすりつける先がない。だからこそ、悲惨なのである。

なお、最近では、認知症が「進む前」にそれを発見し、薬の力で信仰を遅らせようとする向きがあるらしい。そしてそのための検査も、徐々に発展してきているようだ。

しかし実際にMCT(軽度認知障害)と診断されると、これまでは「年のせい」と気楽にしていた人が、突然自信をなくして、ふさぎこんでしまうらしいのである。
そうして打ちひしがれた本人や家族は、誰からもケアをしてもらえない。「ぼける」恐怖に襲われながら、以前よりもむしろ消極的な、暗い気持ちで生きていかなければならないのである。すべての気持ちは、置き去りなのか。それは本当に、「治療」と言えるのだろうか?

これから先、超高齢化社会は確実に訪れる。医療の進歩によって、自然にしていれば助からない人もじゃんじゃん助かるようになるだろう。しかし肉体は助かっても、記憶や精神は助からないこともある。それはまわりの家族にとって、「肉親との死別」に等しい悲しみを覚える状態ではないか。おまけに今は、まわりの家族のケアにまで、手が回っていないのが現実なのだ。

「特養の方には、空きがのうて、まだ入られへんのや」「死人が出たら、入れるんやと」
祖父は電話でそう言っていた。ショートステイの利用は、町の援助を受けても月に20万ほどかかる。どう生き、どう老いるのか。そしてどう死ぬのか。われわれ一人ひとりが、決断をせまられる時代がやってきている。

「内容量減らし」に覚えるわびしさ

雑記

少し前に、チョコレートムースか何かを作ろうとしたときのこと。ちゃんと分量は量ったはずなのに、なんだか以前と違う感覚がした。一体これはどうしたことか。

不思議に思いながら、明治の板チョコのパッケージを見る。おかしいなあ、あんた2枚分でよかったはずだよねえ。ところがそこに記されていたのは、驚愕の数値だった。1枚80gだったチョコレートは、いつの間にか65gに減っていたのだ!

以前、お菓子を作るときには、「板チョコ1枚 = 80g」という数値を覚え、それをアテにして分量を量っていた。そしてお菓子のレシピのほうも、板チョコを砕いて使うことを前提としていたから、分量は「板チョコ○枚分」という重さになるように調整されていた。

それが今ではどうしたことだろう。15gも減っているのだ。そりゃあ、以前と違う感触の生地にもなるし、味も変わる。なんだかとても、寂しい気持ちになって、この不景気の罪深さを嘆くほかになかった。

さて、この現象、実は「内容量減らし」という名前で呼ばれているらしい。景気が悪くなったために、本来であれば値上げをするべきところを、あえて「お値段据え置き」にする。とはいっても採算が合わなくなるから、ちょっとばかし量を減らす。そういうことらしい。

明治の板チョコにしたって、始めはきっと5gほどを「へつって」、価格を据え置いたのだろう。なるほど始めはそれでよい。消費者の側も、「5gくらい、分かるもんじゃないし」と思うだろう。安いほうがよいと、そう思うに違いない。

しかしそれを繰り返して、今では65gだ。これでは明らかに量が少ない。いろいろな場所で指摘されている通り、ポテトチップスなんぞは最早、空気を買っているのか、チップスを買っているのか分からない。

駄菓子にしても、明らかに個数が減った。「4行×4列」が、「3行×4列」だとか、そもそも「10個」だとかに減っているのだから、その見た目の寂しさといったらない。値段がいくらか上がるのと、見た目がこんなに寂しくなるのと。一体どっちがつらいだろう。

おまけにこの「内容量減らし」、資源の無駄遣いという感じまでするのだ。詳しくはこの、高校生の小論文がわかりやすい。

https://www.shiruporuto.jp/public/document/container/concours_ronbun/2015/pdf/15ron008.pdf

容器の「上げ底」に関しては、前々から、目に余るものが多いと感じてきた。あるとき私がマグカップ入りのゼリーを買ったら、ゼリーが入ってるのは上のほうのわずか1.5cmほどで、残りは全て空洞だったことがあった。それでもこの商品は、食べ終わったあとのマグカップが価値の主体だからいいだろう。しかしお菓子の上げ底はどうか。無駄に包装ばかり増やして、こちらに手間とわびしさを与える。こんなことは、もうやめにしてもらえないだろうか。

以前、消費税が5%から8%になったとき、Twitterで見かけたのは、「みんながどこかで3%分、あきらめる生活が始まる」という言葉だった。3%分、あきらめる生活。随分しっくりくる表現だ。必要があって増税されるのは仕方がない。けれどもひとつの現実として、3%分、どこかでわびしい気持ちを抱えなければならない。これもまた、事実ではあるのだ。隙間の空いた駄菓子のトレイに。味の変わった手作りお菓子に。3%分のわびしさは、少しずつ私たちの生活を取り巻いている。