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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

『モアナと伝説の海』舞台設定の考察など

この休日は『モアナと伝説の海』を見た。結論から言うと大当たり。本当に、見てよかったと思う。

個人的に、ディズニー映画に感じる「良さ」は、トーリーの簡潔さと、リサーチの上に成り立っているファンタジーだと思っている。

トーリーについては本当に私の好みなので、賛否両論あるだろうけども、「リサーチの上に成り立っているファンタジー」については、ディズニーのそれは群を抜いている。

たとえば前作『ズートピア』。これは、様々な動物が暮らす都市「ズートピア」を舞台にした物語であったが、ネズミ専用の入口があったり、キリンが飲み物を受け取るためのシステムがあったりと、色々な動物が共生するために都市がデザインされている。そういった工夫が、見ていて楽しかった(個人的なお気に入りは、ツンドラタウンの流氷システム)。

そして今作『モアナ』でも、こんな見どころがTwitterで紹介されていた。

 

 

そういうわけで、『モアナ』を鑑賞する際には、ストーリーはもちろん、こういった点も意識して見ようと考えていた。今回は、私が気づいた範囲での「おもしろポイント」を書きながら、『モアナ』を紹介しようと思う。容赦なくネタバレするので、ご了承ください。

あらすじ

かつて、マウイという英雄がいた。マウイは半神半人であり、さまざまな偉業を成し遂げて、島々を豊かにした存在。しかしマウイは偉業のあと、島のいのちを生み出す女神・テフィティの「心」を盗んでしまう。

物語の舞台は、マウイがテフィティの「心」を盗んでから1000年後。
主人公のモアナは、「モトゥヌイ」という島の次期・村長である。
小さい頃に、海に選ばれてテフィティの心を託されるが、モアナはそのことを覚えていない。

モアナは島の外に憧れているが、モアナの父はそれを許さず、村長として生きることを求める。
豊かな自然に恵まれて、平和に暮らすモトゥヌイの人々。モアナは渋々、村長として生きることに決める。

ところがある日突然、モトゥヌイの自然に異変が起こる。魚がいなくなり、ココナツは黒く、炭のようになってしまう。
異変を止め、島の人々を救うには、テフィティに「心」を返さなくてはいけない。そう考えたモアナは、珊瑚礁を超え、初めて島の外へ踏み出す。

「プリンセス」「ロマンス」をやめたディズニー

『モアナ』を語る上で、まず触れておかねばならないポイントは、やはりこれ。
アナと雪の女王』『塔の上のラプンツェル』『ズートピア』からも言われ続けて来たことだが、ディズニーは今、「プリンセスもの」からの脱却を目指しているように思う。

既存のプリンセスは、だいたいが無力であり、顔と心がきれいな女性。そしてプリンセスに惹かれた王子様は、ただ漠然と「お金や権力を持っていて、プリンセスを(結婚によって)幸せにする存在」として描かれている。

それが変わって来たのが、先ほど挙げたような作品。
主人公のプリンセス(的な立ち位置のキャラクター)は、きちんと個性や考えを持ち、自分の力で状況を打開する存在として描かれている。
ロマンスはサブ的な要素として描かれるか、もしくはほとんど描かれない。

『モアナ』でもその傾向は続く。今作では、ロマンスは(おそらく)全くない。モアナは「村長」なので、「プリンセス」に準ずる存在ではあるけれども、誰かの助けを待つだけの存在ではない。

作中でマウイが、モアナを「きれいな服を着て、動物のお友達がいるんだから、(モアナは)お姫様である」「なんでわざわざ外に出るのか」と揶揄するシーンもあった。
既存のプリンセスとの差別化は、今作でも、テーマの一つになっていると言えるだろう。
「海」を舞台にした『リトル・マーメイド』への言及が各所にみられたのも、その表れかもしれない。

また、個人的には、この方のレビューに納得するところが多かった。
フェミニズム」=「ショートカットヘアの押し付け」ではない、という点である。

ladytricolore.hatenablog.com

モアナは見た目も完全にロングヘアにスカートです。

マウイからは「プリンセス」と揶揄されますが

別に女らしさを否定することもありません。

女のままで自分に出来ることをしようとします。

マッドマックスのフュリオサもめちゃくちゃかっこいいですが

モアナも同じようにかっこいいヒロインなのです。

 

この点に関しては機会を改めて書きたいところだが、今回はすばらしいレビューの紹介にとどめておく。

「あなたは何がしたいのか」という問いかけ

さて、プリンセスからの脱却、というのもそうだが、今作では繰り返し問われることがある。
「あなたは何がしたいのか」ということだ。

冒頭のモアナは、父親や島の住人から求められること(=村長としての役割)を果たすべきか、それとも自分の心の向くまま、外に行くかで葛藤していた。
「島を救う」という目的に関しても、「海に選ばれたから」救うのか、「自分がやりたいから」救うのか、という点で葛藤している。前者は受動的だが、後者は能動的な態度である。

一方でマウイも、また不安を覚えている。マウイはアイデンティティの拠り所を「釣り針」と「偉業」に求めている。「釣り針」を使って「偉業」を成し遂げるかぎり、マウイはマウイでいられる。けれども「釣り針」を失い、「偉業」が成し遂げられないマウイは、もはやマウイではないのでは?という恐れを抱いているわけである。

そんなマウイに、モアナは「あなたの行ったことは、あなた自身の意志によって行ったことであり、それがあなたを形作っている」という旨の言葉をかける。

個人的には、このセリフこそがこの映画の結論ではないのかな、と思った。
人生においては、一人一人、置かれた環境は違うだろうし、運だって影響するだろう。ゲームのアチーブメントとは違って、人生には「偶然」が多大に影響を及ぼす。だからこそ、自分のしてきたことというのが、「果たして本当に自分の力によるものなのか?」と不安になったり、「ただ周りに合わせてきただけなのでは?」と不安になったりもする。

その不安を乗り越えるためには、いちいち自分の「意志」で行動を起こすしかない。
自分の「意志」によって物事を行い、その結果を受け入れる。それを積み重ねることによって、自分をつくっていくしかないのだ。

リサーチの上に成り立ったファンタジー

と、こういったことはすでに他のレビュワーによっても言及されているので、私は大好きな「舞台設定」について、気づいたことをまとめてみよう。

移動をやめた人々

『モアナ』の中で、モトゥヌイの人々は元々、海を渡って新たな島を発見し、生活圏を広げていく民族だったことが語られている。加えて、その移動を(なぜだか)やめたとも言われている。

ちょっと調べてみたところ、実はこれは、ハワイ人のルーツにも重なる部分があるようだ。

ゼミ|太平洋総合講座 | やしの実大学

ところが、太平洋の東の玄武岩の島々に移り住んだ人々は、太平洋を最初に渡った人々とはまったく違います。海を渡ったのも今から約5000年前のことなのです。出発点もまだはっきりしたことはわかっていませんが、おそらくアジア大陸、中国の南部あたりだろうといわれています。結論から申しますと、この人々がハワイ人の遠い祖先となるのです。

このサイトでははっきりと、ハワイ人の祖先が住んでいたのが「玄武岩の島々」と言われている。『モアナ』中にも玄武岩でできた島が登場するのは、冒頭で紹介したこのツイートにもある通り。

さらに、オーストロネシア人が航海民族であったこと、加えてなぜか、1000年の間、航海をやめたこと。

この航海民をオーストロネシア人といいます。この人たちはオーストロネシア語を話していました。西はマダガスカルから東はイースター島までの広大な地域に広がる言語です。彼らはビスマルク諸島からソロモン諸島ニューカレドニアを通 ってフィジーに、さらにトンガまで非常な勢いで移動していきました。(中略) さて、当時としては驚くほどの勢いで東へ移動したラピタ土器を持ったオーストロネシア人ですが、彼らはなぜか、トンガ、サモアまでたどり着くと、そこで一旦移動をやめてしまいます。このあたりに約1000年間留まったとみられています。

 

ココナツと土器

最後に、土器についての言及。そういえば『モアナ』中にも、土器の使用は見られなかったように思う。ココナツを割って食器がわりにしていた記憶がある(うろ覚え)。

そして、このあたりに留まった間に土器を作ることをやめてしまうのです。どうしてやめてしまったのかは、まだはっきりとはわかりませんけれども、おそらく調理法の変化が関連あるのだろうと思われます。

ココナツの利用方法が幅広く、ともかく万能な植物だというのは、『モアナ』の劇中歌で触れられていたほか、オーストロネシア地域を研究している先生からも聞いたことがある。

「釣り針」の重要性

さらに上述のサイトを読むと、この地域の研究においては、「釣り針」を編年材料としていることが書かれている。
「編年」とは要するに、時系列を整理するということ。遺跡を発掘していると、土器やら何やらが出てくるわけだが、土器は時代・地域によって形が変わる。

歴史の授業で「縄文土器」と「弥生土器」を習ったことがあると思うが、たとえばひとつの遺跡が出て、そこに「縄文土器」があったとすると、その遺跡は「縄文時代の遺跡」ということになるわけだ。

ところがハワイ人の祖先は、上述の通り、土器を作るのをやめてしまった。
そうなると遺跡の時代がわからなくなる。どうするか。と、ここで選ばれたのが「釣り針」だと言うのである。

発掘を進めていますと、日本では編年に土器を使いますが、その遺跡からは一向に土器が出ませんでした。そこでドクター・エモリーに聞きました。「全然土器が出ないけど、どういうわけですか」と。すると彼は「ポリネシアには土器はないよ」というんです(笑)。それでは何を使って編年をするのかと尋ねますと「そんなものはない」と言われました。私は仰天して、土器がないなら何を使って編年を立てようか考え発掘を進めていますと、釣針が非常にたくさん出てくることに目が止まったのです。

つまり、この地域の研究をするにあたっては、「釣り針」は大変重要なアイテムということになる。マウイが依存するシンボルが「釣り針」というのは、こういうところからも来ているのかもしれない。

遺跡のカヌー

『モアナ』中で、主人公であるモアナは、石で塞がれた遺跡の中にカヌーを見つける。それで、祖先が海を渡る民族(航海民族)であったことを知り、「自分が外へ行きたい気持ちは、きっと祖先とつながるものだ」と勇気付けられるわけだが、これもまた、考古学的なリサーチがあったらしい。

その遺跡の発掘を続けてみると、そこが水没遺跡でしたので木製品が出始めました。後にカヌーの一部が出土し、しかも側板だけで長さ7m、幅が50cmもあり、それが2枚も出たのです。さらに12mの長さのマスト、4mのかじ取り用の櫂、巨大な水あかとりが出ました。これらをもとに考えてみますと全長は約20mのダブル・カヌーが浮かび上がりました。ポリネシアの人々はこうしたカヌーで島から島を行き来していたことが、伝説だけではなく考古学でも立証できたわけです。

余談にはなるが、個人的には、この後の部分の記述がたいへん「熱い」。

やれ、政治的な理由で住んでいた島を追いだされたとか、人口が増えたので新しい島に渡る必要が生じたとかいいますが、私にはどうもそうしたことだけとは思えません。ポリネシアの人たちは、遠洋航海できるカヌーを作る技術と、星や海流を読みながら航海する航海術、長期航海をする食糧の保存する技術を持っていました。
そうしたところに島には毎年、渡り鳥が飛んでくるわけですね。鳥が飛んでくる先には必ず陸地があります。航海に関するあらゆる技術を持った人がまだ見たことのない陸地の存在を知って、果 たして黙っていられるでしょうか。「鳥が飛んでくる先に行ってみたい」そう思うのではないかと私は考えます。少しロマンチックかもしれませんが、ポリネシアの人の航海の動機には、ポリネシア人の気質ということがあるのではないかと私は、思います。

『モアナ』中には様々な航海技術が登場する。海水の温度で方角を判断したり、星を測ったり。
モアナが外に出たくなるのもまた、「ポリネシア人の気質」を考えれば、自然なことなのかもしれない。

「女神テフィティ」と「炎の神テカ」

特大のネタバレになるが、すべての恵みをもたらす女神テフィティと、全てを焼き尽くす溶岩の女神テカは、実は同じ存在である。マウイによって、「心」を取られたテフィティが、我を忘れた姿がテカなのである。

これはとても面白いなと思った。日本列島を考えてみても、火山によってもたらされる恩恵はいろいろとある(温泉もそうだ)。しかし一方で、ひとたびそれが噴火すると、恐ろしい災害ともなる。

とかく物事はこういった二面性を持つものだ。作中でも、「海」のもつ二面性はハッキリと言及されている。海産物をもたらし、島の生活を成り立たせる一方で、モアナの父の親友を奪った。

加えて、モトゥヌイが典型的な火山島の地形(中心に山があり、陸地が少ない島)であることを考えると、テフィティが最高位の女神として扱われていることも納得できる。

おばあちゃんの魂がウミホタルの光

作中で、モアナのおばあちゃんがエイの形をとり、魂となってモアナに会いにくるシーンがある。
そのシーンの海の光り方は、ウミホタルの光り方にそっくりである。
少しわかりにくい映像だが、参考においておく。
フェリーが立てる波に、驚いたウミホタルが発光している。

youtu.be

その他

他にも検討したいのが、「伝承」の内容である。うろ覚えではあるが、マウイは「島を引き上げ」「大地の気温を上げて」ムニャムニャ、と言っていた。おそらくプレートの移動などについて言っているはずなのだけれど、ちょっと検討できるほど記憶が定かではない。

ともかくこういった自然現象が「伝承」という形で伝わっている(設定である)のはおもしろい。

まとめ

今回はとりあえず、初見で自分が気づいたポイントについてまとめてみた。その他いろいろと書きたいことはあったが、ダイレクトな先行研究が見つからず、載せなかったものもある。こうした設定の検討は、「隠れミッキー」探しにも似た楽しみではないかな、と思う。ぜひご自身でも探してみてほしい。

個人的に最高のシーンは、おばあちゃんの魂がエイとなって海に帰っていくシーンだ。おばあちゃんが亡くなる瞬間は描かれていないのに、「ああ、いま亡くなったのだな」とハッキリ分かるようになっている。おまけにエイはとても生き生きと泳いでいて、死は単に「悲壮なもの」ではなく、「解放」であるとも取れるような描かれ方をしている。

海に生きる人々だから、魂は海へ帰り、生き物の形をとって、また会いに来てくれるのだろう。あたたかい描かれ方だと思う。

自分の研究に関わりそうな話としては、ディズニー映画と地域の文化との関わりについてもいろいろと書きたいことがあった。ディズニーがおとぎ話を「物語」にして消費することに、否定的な意見もある、という話である。

確かに、『シンデレラ』と言われれば、グリム兄弟のそれよりも先にディズニー版が出てくる人もいるだろう。だからかもしれないが、『アナ雪』は「雪の女王」を下敷きとしながら、かなり違ったストーリーに仕上げられていた。

そして『モアナ』に関しては、コスプレ衣装に対してこんな批判がなされていた。

www.huffingtonpost.jp

最近の『ポケモン サン・ムーン』に関しても、『モアナ』に関しても、オセアニア地域に注目されることが増えている。そういった文化と商業の関わりについても、ぜひ色々と述べたかったのだが、別の機会にゆずりたい。ともあれ皆さん、劇場へ。

折り紙から正多角形を切り出す方法

折り紙で花を作るのが好きだ。心が荒れてきたときに、無心で折り紙を折っていると、どれだけ腹が立っていようと、美しいものが出来上がる。適当なテレビを流しながら、ただ色々な花を折る。気づけば机の上が花畑のようになっていて、折り疲れたころにはなんだか気持ちも休まっている。

今日はそんな花に関連して、折り紙から正多角形を切る方法を紹介したページをまとめておく。

五角形

origamisho.com

六角形

cbox.jp

七角形

tsujimotter.hatenablog.com

八角

折り紙で正八角形を作ろう: EXCEL VBA 算数・数学の日記

紙を変えるとレパートリーに幅が出る

花を作る際、紙の形を五角形・六角形・七角形・八角形……としてみると、作れる花のバリエーションがずいぶん違って来るのである。たとえばこれ。

youtu.be

ずいぶん複雑な作品に見えるが、折り方は単純で覚えやすい。これは八角形の紙を使っているが、六角形のバージョンもある。

しばらく多忙が続き、体力もそうだが気力もずいぶん吸われている。そんな中でも、紙さえあれば楽しめるホビーをちびちびやりながら、なんとか新学期を生き残っていきたい。

折り紙ワークショップを開いた

以前この記事でも書いた、折り紙ワークショップを終えた。世界を回っているというファミリー(の8歳の子)に折り紙を教える活動である。

zarameyuki.hatenablog.com

メールのやり取りで「*not* for beginner, please」と書いてあったので、なるほど、鶴くらいは折れるのかな?と踏んで難易度を調整。花と動物が好きとのことで、1回目は花、2回目は動物を一緒に作ることにした。

……ところが私は盛大に読み違えをしていたようで、初めてみてすぐに分かったことだが、とにかく覚えが早い。同じものを2、3回作って覚えてもらおうと思っていたのに、1回で覚えただけではなく、「次は小さい紙で折ってみる」などとおっしゃる。あっという間に用意していたカリキュラムが終わってしまい、「これはちょっと難しいかな」と思って外した予備のアイテムも作っていくことになった。

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2回目のワークショップは、その反省を生かして8アイテムの作り方を用意。2時間のレッスンで8アイテムも覚えられるとは、驚異の記憶力である。おまけに驚いたことには、途中で「この犬は尻尾がないから、ちょっと付け加えてみる」と言い、自分で新たな作り方を生み出し始めたのだ。

折り図通りに折ることしかできない私に比べ、なんという発想力だろう。幼児や子どもの力に触れ、かれらの能力に関する研究に全身をかけるようになった人がたくさんいるが、それも当然のことだろうと思わざるを得なかった。

もちろん、色彩に関する考え方も自由で、たとえば花を作るにしても、木目模様のペーパーを選びとったりする。はすはピンク、犬は茶色……などという制約がなく、自分の好きな色を、好きなように選んでいくので面白い。

ただし「自然の姿」がきれいだと判断したものはそのままの色で作るようで、あやめは紫、中のしべはゴールドの紙で作っていた。私もあまり、定石の考えにこだわらないようにとは気をつけているほうであるけれど、それでも子供に比べると、すでに色々な前提知識に縛られているのだろうな……と思うなどした。

彼女のママンはフランス系らしく、フランス語と英語を流暢に話した。言語学修士をとった人らしく、世界旅行の間にも、かならず現地の人間と会い、伝統文化を教わるようにしているらしい。

そんなわけだから説明もいろいろと求められて、たとえば「猫」という漢字は、こちらが意味でこちらが音を表しており……などと話すのだが、つたない英語が足を引っ張る。
とくに1回目は緊張もあって、知っているはずの表現が出てこず、たいへん迷惑をかけてしまった。ここらで一丁、ちゃんと英語を勉強しようかなと思わされた出来事だった。

これまで、純粋に自分のために、趣味としてやってきた折り紙だったが、こうして人に喜んでもらうと、やった甲斐があると思える。
ファミリーは今日から東京だそうだ。これから先は、東南アジアのほうへ行くらしい。彼女らの旅が安全に行くように祈っている。

雨の日の風景

カメラを持ち始めて、雨の日がいやでなくなった。

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雨の日は寒い。持ち物も濡れる。傘をさし続けるのはだるい。
私は面倒臭がりだから、自分一人で歩くときには傘をささない。ずぶ濡れになろうが、放っておけば乾くだろうという算段である。もっとも最近はパソコンを持って歩くことが多いから、なかなかそのポリシーをつらぬくことができない。技術の進歩によって、私の生活が変えられたケースと言うべきだろう。

そんなわけで、あまり好かれない雨の日ではあるが、写真を趣味にし始めると、これが絶好のカメラ日和となるのである。だいたいにおいて日本の町並みというのは湿っぽい。なんだか茶色と灰色で構成されていて、それ以外の色といえば、せいぜいが下品な広告の色である。だから写真を撮ろうとしても、なんだかしけた雰囲気の写真になりがちである。私は好きだけれどもね。

そして、その事情が一変するのが、実は雨の日なのである。雨が景気よく降っている日に、ちょっと高いところから、めだつ大路を見下ろしてみるとよい。色とりどりの傘の群が、まるで花畑のようにして広がっていることがある。そのたのしい光景といったら、なかなか日常ではお目にかかれない陽気さである。ビジネスパーソンのさす、黒ばかりの傘の群れに、ひとつだけ派手なのが混ざっているのもまたおもしろい。

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ぬれた路面もまた、雨の日にしか見られない光景である。御堂筋くらい大きな通りをながめていると、ぬれた路面が車のライトを反射して、エレクトリカルパレードのようになる。
この間行った東京でも、銀座のあたりをうろついていたら、ガード下の路面の美しいのにすっかり驚いてしまった。もちろん、水溜りなどは絶好のシャッターチャンスを提供してくれるだろう。

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私の指導教官が、卒業式の日、記念のプレゼントをくださった。プレゼントはそれぞれの学生に合わせて、これから働く人にはパスケース、ドクターへ上がる人にはペンケース……と、ひとつひとつ選んでくださったものだった。

そして私へのプレゼントは、なんとカメラ用のストラップだったのである。私は一度も、先生に写真が趣味だと伝えたことはない。けれども私のちいさな行動をひろって、博士へあがるにあたっても、こうした趣味を持つのはよいことだと考えてくださったのだろう。ほんとうに、すぐれた研究者でいらっしゃるだけでなく、人間としても尊敬したい先生だなと改めて思う。

来週からは新学期も始まるが、きっと大変なこともあるだろう。それでも、カメラを持つことで雨の日が楽しくなったように、いろいろな出来事をすべて経験と捉えることができれば、きっと実りあるものになるはずと信じて努力したいものである。

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椿

去年の冬、用事があって嵐山の奥のほうを歩いていた。あたりには人家も見あたらない。滅多に人が通らないような、どこへ続くのか分からない道をさまよい歩いた。はなばなしい「嵐山」とはまた違った風情があって、たいへん気分良く歩いたことを覚えている。

さて、少しだけ太い道へ出て、そこはアスファルトで舗装されていた。駅へ戻るため、もくもくと歩みを進めていたら、赤いものが点々と落ちているのが目に映った。はて何かしらと近づいてみると、それはまさしく椿であった。椿の花が、命を終えて、コンクリの道へと落ちていたのだ。

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桜が「散る」と言うように、椿の花の枯れることは、「落ちる」と表現するらしい。首を落とされるイメージから、武士には不人気だったと聞くが、それも本当かもしれないと思う。本当に「落ちる」というありさまなのだ。樹上で咲いたときと同じように、そのままの形で、土へ落ちる。そうして徐々にくさっていく。

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はじめ私が見つけたときは、あまりにもそのままの形なので、土の上で咲く種類の花かと思い違いをしたほどだった。しかしよくよく見てみると、めしべはきちんと樹上へのこっている。一本だけ、まるで針を突き刺したような姿で、めしべだけが樹へのこっている。

この体験をしてからというもの、私は椿のとりこになった。冬がくるたびに、土の上を探してしまう。落ちてからまだ間もない花、半分ほどくさった花。誰かに踏みつけられた花。いろいろあるけれど、どれも独特のグロテスクな魅力をもっていて、ぞくぞくしてしまう。もう役目を終えたものなのに、こんなにも美しいというのは、なんだか退廃的で、背徳的で。その徐々にくさっていく様を、時間のゆるす限り見つめていたいという気もする。

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人も生きていくにあたっては、いろいろな名誉を得られることもあるだろう。お金がたまることもあるだろう。たまったお金で着飾ることもあるだろう。それは生の楽しみだけれど、同時に、死してはなんの役にも立たない楽しみでもある。いくら身体を飾っても、死ねば徐々にくさっていくし、最後は土に還っていく。

けれども椿のめしべのように、本当に大事なものだけは、なんとか残したいと思う。それが何にあたるのかは、人によっても違うだろう。私にとっては書くということだ。私の書いたものがのこって、そこから新たな何かが生まれる。生殖には興味のない私だが、そういった意味では、新たなものが生まれる培地になりたいと思う。すべての虚飾を振り落としてなお、針のようにとがった芯を残せるのであれば、人生もまた無意味ではないと思えるのだった。

そして今年も椿は落ち、桜が咲く。私は博士課程にあがった。