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大学院生のブログ

人生まるごと今後の課題

吉田寮のおかげで英語が話せるようになった

雑記

修論提出のちょっと前、あまりにも鬱屈していたので、留学生との交流事業に顔を出した。折り紙のワークショップで、留学生たちと一緒にいろいろ折るアクティビティ。私は折り紙が趣味なので、この記事で紹介したような作品を持っていったら、たいへん喜んでもらうことができた。

zarameyuki.hatenablog.com

折り紙はいい。紙さえあればどこでもできるし、わざわざ綺麗な紙を買わずとも、コピー用紙やチラシを利用して折ることもできる。一方で紙にこだわれば、インテリアにもできるレベルのものが作れる。

そんなわけで、留学生たちとへろへろな英語で交流しつつ、一緒に折り紙を楽しんだのだが、そこで知り合ったコロンビア人の留学生から、突然メールがやってきた。聞くと、アメリカからやってくる8歳の女の子に、折り紙を教えてほしいという。

その子のファミリーは世界を回っているらしく(すごい)、それぞれの国の滞在中は、現地の人間から伝統文化を教わって回っているそうだ。それで日本では折り紙をやろうと考えたらしいのだが、すでにその子は母国の「折り紙クラブ」でいくつかの折り方を身につけており、観光客向けのビギナーメニューが物足りない。それで、難しいメニューを教えて欲しいとのことだった。

そういった経緯があって、いまはその子のファミリーと打ち合わせをしている。英文メールを打つのはなかなか骨が折れる。日本語なら、たかだか5分で打ち終えるような内容なのに、英文となると30分もかかってしまう。己の英語力のなさに驚くが、それでもなんとか意思疎通がはかれるようになったのは、思い返すと吉田寮でのパーティがきっかけだったように思う。

それはある日、私がアパートに帰ろうとしていたときのこと。コンビニに寄ると、研究室の先輩がいた。先輩はこれからパーティに行くのだと言う。「よかったらどう?」と言われ、「行きます」と適当に返事をしたところ、それは吉田寮のパーティであった。

寮の一室へのこのこ向かうと、部屋は謎の空間である。謎の置物、謎のお札、謎の人物、謎の言語。すべてが謎の空間の中に、すでに8人ほどのメンバーがいる。どうやら持ち寄りパーティーらしいが、何の料理なのかよくわからない。メンバーの国籍も不明である。

私は緊張と、英語への引け目で小さくなっていたのだが、参加者の一人(中国人らしい)は容赦無く質問を投げかけてくる。とてもおだやかな微笑みを浮かべ、「君は天皇制についてどう思ってるの?」

黙っているわけにもいかないので、へろへろの単語でなんとか意思を伝えようとする私。気づけばへろへろながらも、なんとか会話が成立していることに気づく。そこにいたのが全員、アジア系だったというのもあるかもしれない。ともかくそのとき、私は「意外と通じる」ことに気づいのである。

それからというもの、私は拙いながらもなんとか英語を話すようになった。京都は英語を話す機会にあふれているので、上達も早い。
そのおかげでこんな風に、世界を回っているファミリーと話すこともできるのだから、吉田寮さまさまだなと思う。来たる折り紙交流の日までに、便利な表現を覚えておかなければならない。

結婚の利便性について

雑記

子供をつくる意思がない。生まれてこのかた、そんな願望が発生したことがないのである。

中学生のころには、「大人になれば自然発生的に備わるものだろう」と考えていた。大人になれば、きっと芽生えるものだろうと。しかし生殖可能になり、いわゆる「適齢期」を迎えた今でも、いっこうに子供が欲しいという気が湧いてこない。

こんなことを言うと、人はまるで私が重大な欠陥を抱えた人間であるかのような顔をする。もしくは年齢・環境的に、「成熟しきっていないから」だと言う。もっと歳を重ねれば、自然にわかることでしょうと。私がそれに反駁すると、今度は脅しにかかってくる。老後がさみしいよ。みんな苦しくても作るんだよ。それが社会なんだよと。私は適当に微笑んで、「そうかもしれませんね」と言う。それで相手は満足する。会話が終わる。

こんな会話を数十回やって、ときには私の幼少期に原因をもとめ、もしくは「日本社会の制度的欠陥が若者世代の希望を奪った一例」と言われ、いろいろな形で、私の「欠陥」が説明されようとしてきた。理由がわからないものは不安である。だからみんな、自分の中で説明を作り出そうとするのだ。しかし私に「理由」はない。ただ「結果」があるのみだ。私は子供が好きでなくて、ほしくない。ただそれだけのことなのだ。

さて、生殖による再生産がライフプランに入らないから、自然と「婚姻」もどうでもよくなる。「婚姻」はきわめて制度的・形式的なものであって、当事者同士が納得していれば、あとはどうでもいいのである。むしろ書類上の手間が増えるだけ、損をしているとすら言える。相手と気が合わなくなったとき、わざわざ「離婚」のステップを踏むのもめんどうな話だ。だから私は結婚もしたくない。恋愛状態に身を置くのはいいとして、婚姻関係には関わりたくない。そういう形で暮らしてきた。

ところが、である。最近、結婚をした人のブログを読む機会があって、そこの記述に気づかされることがあった。ご本人のブログは(知人の知人という関係の人なので)載せないでおくが、「結婚をすることによって、恋愛市場から引退するということが、思った以上に精神衛生によい」というのである。

なるほど確かに、恋愛市場というものは、非常にめんどうなものである。
適齢期であり、独身者の私は、ひんぱんに誘いを受ける機会がある。「研究の話を聞きたいので」と言われて行ったら、明らかに別の目的が裏にひそんでいたことも多い。しかしこういった状況は、恋愛においてはむしろオーソドックスな「攻め方」だ。

だから私も気を遣う。誘いを受ける段階では、まだ相手が「好意」を抱いているかはあいまいである。こちらから先んじて「あなたと恋愛する意思はありません」などと言って、まったくの勘違いであった場合、私が恥をかくだけでなく、せっかく私の研究に興味を抱いた人が去ってしまうことになる。だから強く断ることもできず、「忙しいので」などといって、あいまいに断ってフェードアウトする必要がある。

選び、選ばれ、だまし、だまされ。そんな高度な思考の演算が、恋愛市場では要求される。
そんな駆け引きは、若い間はきっと楽しいものであろう。相手を手のひらの上で転がし、もしくは自分が転がされて。その駆け引きに勝ち、相手が自分のものになった心地よさ。虚構と分かっていながらも、かりそめの恋愛状態を楽しむ蜜月の期間。恋愛は麻薬にすら似ている。だからみんなが手を染めるのだ。

けれども年を取ったあるとき、それら全部に「疲れた」と感じるときが来る。恋愛市場で選ばれるため、身なりや行動に気をつけている自分。ほんとうはハイヒールなんか履かずに、スニーカーでざくざく歩きたいのに、わざわざ外反母趾になってまで、ピンク色の靴を履く。すでに行ったことのある、対しておもしろくもないテーマパークに、まるで初回かのようにはしゃいでみせる。

そういったペルソナのすべてが鬱陶しくなって、「放っておいてくれ!」とわめきたくなるときが来る。それでも世間は放っておいてくれない。なぜなら私は「独身者」だから。市場に商品として並んでいるから。私は値札をつけられて、勝手に棚に並べられている。おまけに年齢を重ねるたび、「うっすらホコリをかぶっている」だの、「そろそろ値下げが始まる」だのと言われていく。そんな棚から降りるための、唯一「正しい」方法、それこそが「結婚すること」なのである。

自由経済」となった恋愛市場は、参入にも脱退にもエネルギーがいる。そこから効率的に降りるには、値札の代わりに、「売約済み」の札を貼られるほかないのだろう。今は、そんなふうに納得している。

東京へ行った

雑記

東京へ行った。苦手な街だ。用事があって、それで行った。そうでなければ行きたくなかった。東京は私が「持たざる者」だと、冷たく突きつける街だから。

生まれてこのかた、関西から出たことがない。初めて東京へ行ったのは高校生のときで、とにかく「怖いところ」だと思っていたから、目的地へはタクシーで行った。帰りも当然、タクシーで帰って、一切わき目もふらなかった。ちょっと観光をする余裕ができたのはつい最近のこと。学会や何やで用事があって、頻繁に足を運ぶようになってからだ。

東京にはなんでもある。おしゃれな街並み。美味しい食事。センスの良い服屋。美術館だって博物館だって、電車に乗ればそこそこ30分で行けてしまう。駅ナカにはイベントの情報が所狭しと並んでいて、(私の実家のような)へんぴな町の駅とは違い、スペースが空くということがない。何でも手に入る街、それが東京。日本の中心たる場所である。

ところがここには重大な前提が隠されている。「金さえあれば」という前提だ。金さえ出せば、おしゃれな街並みをうろつける。金さえ出せば、美味しい食事にありつける。金さえあれば、センスの良い服で風を切って歩くことができる。こういう前提があることを、否定する人はいないだろう。ほっと一息つくことすら、ここでは金銭なしに行えない。やはり、「金を出して」休むことになるのだろう。そして私には金がない。

駅についてエスカレータで降りていくと、横にあるのは広告である。ご丁寧に、私の下降に合わせて読み進められるように貼り紙が配置されている。電車から外を見ると、そこに見えるのは広告である。色が、文字が、情報が、四方八方から押し寄せて、「消費せよ!」とがなりたてる。そうはいっても、私には可処分所得がないのだから仕方がない。この街が見せるキラキラを、私は享受することができない。

もちろんこれは、私が行った場所が悪いというのもあるだろう。きっと中心地から離れれば、ちょっとのんびりしたようなところもあるはずだ。しかしそういった場所は、そもそもヨソの人間には開かれていないのであって、だからこそのんびりしているのである。ヨソものである私が行ったとことで、腰を下ろすことすらままならないだろう。そんな風に思う。

と、自分が「持たざる者」であることを突きつけられる以外に、私がともかくいやなのは、自分の頭をいらない情報が埋め尽くすように感じることである。

かつて人類学の授業の中で、David Harveyの論文を読んだ。テーマは、フランスにおいて「大通り」が果たした役目について。

市民革命が盛り上がり、揺れ動いたフランスは、かつての街並みをキレイにならし、大通りを張り巡らせた。通りの沿いにはやはりキレイな百貨店が立ち並ぶ。人々はそこに吸い寄せられ、王や女王のように扱われ、財布を空にして百貨店を出る。買ったものを身につけた女性は、カフェのテラス席で談笑にふける。そしてそんな光景こそが、百貨店の広告にもなり、パリの「顔」の一部になる……。

この、パリにおける「オスマン化(Haussmannisation)」は、ニューヨークをはじめとして、近代都市の構造の下敷きとなっている。東京だってそうだろう。Harveyはこの現象をとりあげ、「人々の関心を、政治から消費行動へ移らせるための方策」であるとした。きっと正解だろうと思う。私だって、十分それに踊らされている。誰のことも、批判することはできない。

けれどもこういった情報の氾濫、消費行動への誘導の中で、自分がほんとうに大切にしたいことだとか、短い人生の中で、いったい何を人生における中心に据えるのかといったことについて考える時間すら奪われてしまうのはほんとうに悲しい。目先の情報を追いかけるために、5分、10分と時間をとられて、気づけば一日がごみで埋まっている。そんな一日を何度か繰り返せば、一週間、一ヶ月、一年などすぐに経ってしまうだろう。とかくここでは、頭を整理する時間がない。追い出すことに躍起になって、気づけば疲れ果てている。そんなふうに感じてしまうのだ。

そんなわけで溜め込んだ疲れが、今になっても抜けきらない。卒業式、卒業パーティ、M1の修論相談会とイベントが相次いだせいもあろう。それでも詰まった仕事があるので休むことが許されない。3月中は、ずっとこんな調子だろうと思う。

数日間休みます

毎日更新してきたブログですが、多忙による体調不良のため、数日間更新を休止します。19日から22日まで京都を離れるため、再開は遅くとも3月23日を予定しております。恐れ入りますが、今しばらくお待ちいただければと思います。

 

(2017/3/24追記)

京都へ戻りました。まだ身体は本調子ではありませんが、ぼちぼち再開しようと思います。お待ちいただいたみなさま、ありがとうございました。

『ラ・ラ・ランド』を見た

映画

あなたには夢があるだろうか。

私にはある。あった。小説家になりたかった。けれどなれなかった。何故か?知らん。

ともかく話を小説家に絞って進めよう。ちょっとこの記事を読むのをやめて、知っている小説家の名を挙げてみてほしい。いったい何人出てきましたか?3人?まぁそんなもんだろう。10人?けっこう知ってるね。50人?あなたは文学理論の研究者なのかな。

そう、「そんなもん」なのだ。小説家を目指す人間はごまんといる。かりに志望者がたった1000人しかおらず、あなたが50人も小説家の名を挙げられたとしても、確率としては1/20だ。その裏には19/20の「なれなかった人」がいる。死屍累々の光景の中で、村上春樹が、東野圭吾が、宮部みゆきが輝いている。

私たちはあきらめていく。だんだんと夢をグレードダウンする。「OK芥川賞はあきらめるよ。でも普通の連載作家ならいいでしょう?それもダメ?じゃあWeb作家あたりを目指そうか?うん……じゃあ……ブログにしようか?」

流れはこんな感じだろう。そして最後は、ブログにすら反応が来ないことに打ちのめされて、文章を書かなくなっていく。たまに、Facebookの投稿を見た友達から、「小説家みたいやなぁ!」などと言われて、気分よくその日の午後を過ごす。
その程度の賞賛でなんとか自分を落ち着けて、そうやって老いて、若者に「昔は私だって……」と自慢するような人間になる。小さな賞でも取っていたものなら、厄介さは数万倍だろう。
そんな大人に、自分はなりかけている。

さて先日は、『ラ・ラ・ランド』を見た。ミュージカル映画は好きである。だからとっても期待して見た。ところがこれは「not for me」だった。オシャレな衣装に良さげな音楽、どれも素敵だったはずだ。それなのに何故だか、まったくピンとこなかった。

監督は真剣に映画を作る。だから私も真剣に向き合う。このモヤモヤを、文章にして決着をつける。そう思って、ずっとずっと考えてみた。

けれどもなんだか答えは出ない。「無計画な主人公たちに共感できない」というのもあるし、「大口を叩いて理想を語るヒーローに魅力を感じない」というのもある。「恋に落ちるきっかけが不明」なのも不満だし、「唐突に夢が叶う感じもイヤだ」という気持ちもある……

そこで気づいた。ああ、この話、すごくリアルなんだ。

たいした計画もないのに、東京へ出るような人。
理想ばかり語るけれど、活発に動くわけでもない人。
別に相手がすごく好きなわけでもないのに、なんとなく一緒に過ごして、なんとなく別れるラブストーリー。
必然性はないのに、ごろっとチャンスが舞い込んで来て、なぜか成功する人への妬み。

どれもどれも、実世界において感じるモヤモヤと一緒じゃないか。「夢を追っている」と言いながら、動きもせず、計画も立てず。それでも成功するやつはして。自分は成功できないままで。

そんな実世界でのモヤモヤを、映画という「娯楽の時間」に見せられたのが不満なのだ。考えてみれば、私の好きな映画はすべて、リアリティとは程遠い内容ばかりだった。「努力した結果、それが誰かの目に留まり、瞬く間に成功をおさめる!」なんて、一見筋が通っているようで、実は完全なフィクションだ。現実世界では「努力」なんてクソの役にも立たない。「努力」は成功した後に、「私は誠実な人間でしたよ」とアピールするためのアクセサリーでしかないのだから。

だからこそ、「なんでか知らんが」成功したヒロインに感情移入をすることができず、賢く立ち回ったヒーローに魅力を感じることもなく、「なんかイマイチだったなあ……」なんて思うのだ。それは私にとっての現実だから。映画に求める「娯楽」の機能とは、かけ離れた悲しみがそこにあったから。

「物語を鑑賞する」とは、その物語で提示される要素を、自分の体験と結びつけて受け入れることだ。そこに「客観的な内容」などというものは存在しない。すべては主観的な解釈の世界なのである。

だから物語を鑑賞すると、自分のすがたがよく見えてくる。提示された要素に、自分はどういう感想を抱いたか。それを緻密に観察すれば、自分自身の、見えない心の奥底がのぞくような気がする。

『ラ・ラ・ランド』を楽しむことができなかった私は、きっとヒロインが働くコーヒーショップにいて、画面の片隅にちらっと映る程度のモブなのだ。モブキャラだから、ヒロインに感情移入なんてできっこない。そんな人生を、焦りとともに生きている。